いまさら家族と言われても。

仕事はじめだった1月2日、自分以外の家族の写真が送られてきた。
両親のところに姉、妹の家族が揃って正月を過ごしていたらしい。
何でもない場面が切り取られたそれらは、とても穏やかであたたかく、そして何よりも当たり前の光景だった。
両親から生まれた子供たちが長じて、また子供を成して集まる。笑顔が増えていく。人として、社会的動物として、ごく当たり前の姿。

送られてきた家族の様子を見て、微笑ましい気分になると同時に、ここに自分の居場所はないなあとしみじみと思った。
斜に構えて卑下する自分に陶酔する部分もあるかもしれないが、当たり前の人生が歩めていない自分は、ここには混じれない、と。
両親は受け入れてくれるだろう。優しい人たちだ。自分たちの子供を分け隔てることはしない。何を言っているのかと笑って僕の席を用意してくれるだろう。
でも、僕にとってそこは居心地のよい場所ではない。もっと言えば針の筵だ。

親の援助をし家族を成すどころ、自分の生活ですらままならない。
定職はあって日々働いてはいても、同年代の平均所得の半分にも満たない。3分の1程度だ。どこに出しても恥ずかしいワーキングプア。働けば働くだけ、生きているだけで大赤字。この状態でこの年齢で、この先10年、5年ですら生きていられるかどうかも怪しい。
みっともなくて情けなくて惨めで仕方ない。

もちろん、その結果を生んだのは自分のいい加減な生き方だ。楽な方に流れ、困難から逃げ回り、人生に立ち向かうことをしなかった。今から奮起して努力をしようという意欲もない。
だからこそ、のんびりと生きてこられた。そこにはそれほど後悔はない。何一つ得るものはなかったが、大したものを失わずにすんだ。失って困るものを手にしなかった。
そして、人並みの人生は送れなかった。ただそれだけのことで、自分で選んだことだ。

両親より先には逝かないようにする。
たまには顔を出して生存報告をする。
そうすることが家族として僕にできる精一杯のことだ。
本音を言えば、もう放り出して独りにしてほしいと思う。無縁仏で構わない。

いまさら家族と言われても、僕にはそこに加わる資格も意志も持たない。
独りで生きるから、独りで死なせてほしい。
幸せそうに生きるこの人たちに、これ以上何一つとして迷惑をかけたくない。
切にそう願った2024の正月だった。

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