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食の道具から見る食文化:多様性の価値

先日の記事では、食文化が総合芸術の要素を備えているという視点を提示しました(参照記事1)。

今回の記事では、食文化における道具であるカトラリーや器、主食、動作、味付けや料理などが相互に影響を及ぼし合いながら進化し発展してきた様子を追いかけてみます。その上で、新しい食文化の発展のアプローチのアイデアの提示を行います。

記事の後半では、食文化におけるこれらの要素や側面の関連が、目的や経済性に対する合理性だけでなく、経験的な価値の積み重ねであるという視点を持ち込みます。そこから、文化一般に対する考察へと進みます。

その中で、近年のコストパフォーマンスやタイムパフォーマンスに対する違和感の正体についても考察していきます。効率を追求するだけでは見落としてしまう、未来の変化に備えた多様性の価値という視点の大切さが、そこに見えてきます。

■カトラリーと料理のフレーム

ナイフとフォークの文化では、肉はある程度の大きさの塊で調理して食べます。ステーキやローストビーフです。これらは箸では食べるのは難しいでしょう。

箸の文化では、肉は薄切りにして食べます。焼肉や肉野菜炒めです。これらはナイフとフォークでも食べられなくはないですが、タレにディップしたり野菜と一緒に食べたりするのは難しいと思います。

また、ナイフとフォークは、スープに浸かった麺を食べるのが難しい。その代わりに、シート状の麺を使った料理があります。

箸ではシート状の麺は食べにくいと思いますが、熱いスープに浸かった麺は食べやすいです。

このような視点で各食文化を見ていくと、カトラリーの種類が料理のフレームをある程度規定していることが分かります。

■箸の起源

ナイフ、フォーク、スプーンは、シンプルな操作で扱えます。一方、箸は特殊なスキルを必要とします。このため、箸が普及するためには、何らかの強い事情があったのだろうと推測されます。

ここからは、あくまで私の憶測です。

はじめは調理のための棒として登場した可能性があります。ただし、その時はまだ、掴むための二本の棒というよりは、混ぜたり刺したりする目的です。

それが二本でつまむという必然性をもたらしたのは、魚食だったのではないかと考えます。骨を避けるためです。

食事におけるつまんだり挟んだりする操作の殆どは、手やスプーンや、フォークで代替可能です。しかし魚の小骨を取るという操作は、細い棒でつまむというやり方が最も合理的だったのではないでしょうか。ここに箸が登場する必然性があったのだと考えます。そうなると箸の文化圏の方が、小魚を含む様々な魚を食べる食習慣を持っているということになりますが、私の知識の範囲では比較的合致しているように思います。

さらに、粘りのある米を食べる文化とも箸は相性が良いため、米食文化が箸文化の普及を後押ししたのだと思います。この流れがなければ、米は粒で食べず、小麦と同じように粉や麺や餅状にして食べることが主流になっていたかもしれません。

加えて言えば、粘りのある米の品種が選択されて普及して来たのも、箸との相性や良さがあったことは確かでしょう。農作物の選択や品種改良に、カトラリーが影響した可能性があるということです。農作物の品種改良への影響まで広げて考えると、食文化のダイナミクスに歴史的なロマンを感じます。

■インド:手で食べる文化と配合文化

インドではカトラリーを使わないという食文化が形成されていると聞きます。これが、食べながら料理や味付けを変えるサンバルやヨーグルトを好みの配分で混ぜ合わせていくという即興的な食事スタイルを生み出す要因になったのかもしれません。

また、様々な香辛料を乾燥させて粉にし、それを配合するという独特な調味スタイルの文化も持っています。手で食事をすることで生まれた即興的な食事スタイルや、それに伴って形成されたであろう個人個人で味の配合を調整することが当たり前という感覚が、スパイスの配合という調味スタイルにも関係しているのかもしれません。

■カトラリーと器

更にカトラリーは、器の形式や食事の動きにも影響します。

ナイフとフォークの文化では、平らな器の方が使いやすくなります。これは肉をナイフで切るという必然性から来たものだと思います。その影響なのか、液体であるスープの器も、日本人の我々から見ると随分と平らなものを使っているなという印象があります。

また、ナイフとフォークを使うと両手をカトラリーが占めます。この事で、器をテーブルに置いたままにする必要があります。これは、単に器を手で持たないという作法に影響するだけでなく、中央に置いた料理を食事中に各自で取り分けることを難しくします。これにより、大皿料理でなく個人個人に料理がサーブされるという形式を標準的なものにすると共に、鍋のような料理形態を難しくしているようです。

また、食事中に小皿のタレにディップする形式もあまり見かけません。肉にしても麺にしても、予め味付けされたものを食べるスタイルに絞られています。これが、タレ文化でなくソース文化を育んだ可能性があります。

こうしてみると、当たり前の事だと思っていたいくつかの点が、箸の文化特有のものだと気づかされます。

箸の文化は深い器も容易に使うことができ、空いている手で器を持つ作法を一般化します。これにより、大皿料理や鍋料理という形式、肉や麺をタレやつゆにディップする文化を形作っているようです。

■主食と料理のフレーム

加えて、主食も大きく影響します。

ご飯を主食としていると、ご飯のおかずとしての主菜や副菜が位置づけられます。このため、味付けもご飯と合うようなものになっています。

また、ご飯を主食とすることで、カトラリーや器が制約を受けます。日本米のような粘り気のある米は、箸と深さのある器が適しています。パラパラとした長粒の米やチャーハンなどは、蓮華やスプーンですくって食べる方が適しています。そのため器も平たいものを使います。

パンや麺、豆や芋など、他の主食も同様です。主食が他の料理の味付けに影響し、カトラリーの選択にも影響を受けたり与えたりしています。

また、食事の際の動きにも影響があります。

粘りのある米が主食の場合、基本的には食事中は箸を握ったままで、空いている手で器を持つスタイルで、主食とおかずを順に食べます。パンが主食の場合は、カトラリーを置いてパンをちぎって食べ、再びカトラリーを持って料理を食べるという動きになります。

こうした動きは食事を口に運ぶテンポやリズムに影響しています。ゆっくり咀嚼する場合と、素早く口に流し込むように食べる場合で、味わいや食事体験に違いが出ますので、こうした動きによるテンポやリズムの調整が各食文化の体験に影響を与えている可能性があります。また、こうした動きによってタイミングが規定され、料理の味付けやテクスチャの選好にも影響しているかもしれません。

■米と小麦

ここで少し創造の翼を広げてみます。

もし箸の文化圏がもっと広がって入れば、粘りのある麦が生み出され、粉にせずに粒のまま炊いた麦を食べる食文化が生まれていたかもしれません。そこには、今とはまだ異なる料理や味付けの世界が広がっていたかもしれません。

小麦を粉にするための道具の歴史を紐解くと、人類はこの面倒な作業に多くの労働力をかけ、長い時間をかけて知恵を蓄積して効率よく粉にする方法を編み出してきたことがわかります。もしツブのまま美味しく食べることができる麦があれば、この手間のかかる小麦粉の文化は生まれなかったかもしれません。

■形式的な再構成

新しい料理を考えるとき、通常は主に味覚や嗅覚、視覚など面から新規性を出すための工夫をすることなると思います。

一方で、こうした食文化を構成する形式的な要素を分析的に理解することで、新しいコンセプトの料理を考える方向性もあるのではないかと思います。

例えば、新しいカトラリーや食器を考えて、その特性を活かした料理のフレームを考えてみたり、別の食文化の主食を持ち込んでコースを組み立て直してみるなど、五感とは別の角度から料理の構成要素を捉え直す試みが可能です。

また、インドの配合の文化や箸を使う文化圏でのタレやツユの文化をナイフやフォークの分野に持ち込んでみたり、あえて一度箸を置かざるを得ないような仕掛けを施して食事のテンポやリズムを制御してみたりするということも面白いでしょう。

このような形で他の食文化の形式を織り交ぜることで、例えば食材や調理方法は伝統的な和食であるのにも関わらず、他の食文化とのフュージョンを実現する、というようなこともできるように思えます。

■合理的視点と経験的視点

食文化は、おいしいものを作って楽しく食べる方向に進化し発展してきたことには間違いないと思います。もちろん、手に入る食材や経済性の影響も受けています。

ただし、それらの要素を踏まえて最適解を求めるような形で改良されてきたようなイメージではないことが、この記事のような分析を通して見えてきます。様々な要素や側面が、互いに影響を及ぼし合いながら進化し発展し、その積み重ねの上に、多彩な食文化が生き生きと花開いているのです。

今ある食材や経済条件は維持したまま、一度食文化を解体して一から作り上げても、このような複雑で豊かな食文化を組み上げることはできないかもしれません。作り直した食文化が元の食文化と同じくらいの豊かな文化になるまでには、もしかするともう一度同じだけの長い時間と様々な紆余曲折が必要になるのかもしれません。

これは、現在の食文化を形成している個々の要素が、なぜそのような形になっており、なぜ必要なのか、という事に疑問を抱いた時に注意したい観点です。食事の目的や食事に必要な素材や加工の経済性の観点からでは説明できないものが多くある理由は、この観点で説明ができます。

食文化の進化の過程では、目的や経済性から見た合理性が一定の役割を果たしています。しかし、それらの要素や側面が生き残っていくためには、一定の合理性が必要になるだけです。つまり、合理性を極限まで突き詰める必要はなく、淘汰されずに存続するための十分な合理性があればよいのです。

この視点から見れば、食文化を構成している要素や側面には、合理的な理由だけでなく、進化発展する中での経験的な理由もあるということが分かります。こうした視点で見つめることで、食文化をよりよく理解できるようになるでしょう。

■応用的考察1:パフォーマンスに対する違和感の招待

この議論を応用すると、おそらくハイカルチャーもサブカルチャーも含めたほとんどの文化に適用できる考え方だと思います。文化は生態系のようなものであり、生存に必要なだけの合理性を満足させたら、それ以上の合理性追求が働かないのです。

それは進化の限界であるとか意味がないことではなく、多様性を保持して変化に対応する余地を残しておくという戦略と捉えることが妥当でしょう。人工知能の話題の中で出てくる機械学習の用語でいうと過学習という現象を避けるために必要な戦略です。現在の環境に対して必要以上に無駄や余分なものをそぎ落としてしまうと、環境の変化に耐えられずに自滅してしまう恐れがあるという事です。環境の変化を前提にすれば、現在の環境に対する合理性だけを追求することは、逆に非合理な戦略なのです。

それが、一見、合理的な価値がないと思われるような要素や側面に宿る、別の価値です。経験的な価値とでも呼ぶのが良いのでしょう。

最近、コストパフォーマンスやタイムパフォーマンスという言葉が流行っており、理屈の上では理解できるけれども気持ちの上では違和感を感じ、否定したり反論したいという気持ちになる方も多いのではないかと思います。それは、私のこの理屈で言えば、合理的な価値だけでなく経験的な価値にも目を向けるべきだという気持ちが働くためかもしれません。

■応用的考察2:経験的価値への謙虚な姿勢

私の個人的な意見としては、環境変化を見越して余地やロバスト性、変化への備えとしてのスキルや知識の備蓄をしっかり確保していれば、後はその個人の活動の範囲では効率を追求しても構わないのかなとは思います。

また、自分自身と他の人とでは、この先の環境の変化への慎重さや変化の方向性の見立てが異なるという点に、しっかりとした理解が必要だと思います。このため、自分の視点では、将来に渡っても無駄で意味のない非合理的なものだと思えるものでも、他の人から見れば将来の変化に備えてとても大事なものに見えているのかもしれません。

現時点の環境だけを前提にすれば、合理的で最適な状態は1つに収束するように見えるかもしれませんが、未来の変化はどんなに賢い人でも見通すことは不可能であることは周知の事実です。このことを理解していれば、未来の見立てや、そのために経験的な価値をどう取り扱うかは1つの答えには決して収束しないということは自明です。従って、経験的な価値について、他の人や社会と対話する際には、謙虚さを持って話をすることが、とても大切だと思います。


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