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大晦日のおはようございます。

おはよう。

って、なんだか不思議だな。

こんにちは。

こんばんは。

と並列の挨拶のはずなのに、おはようだけ特別な上品さを感じてしまう。

おはようございます。と、丁寧な言い方があるのも大きいんだろうか。こんにちは。と、こんばんは。にもあるのかな。おばんです、はどうだろうか。岐阜ではへんな顔をされるだろうな。

おはようございます。

クライアントへのメッセージ冒頭に、お世話になります、の代わりに使っても違和感がない挨拶なんて、他にあるのかな。こんにちは、や、こんばんは、では距離が近すぎてどうも具合が悪いもんな。

家族に、おはよ。友達に、おはよっ。同僚に、おはよう。
後輩に、おはようさん。仕事場に入るときに、おはようございます。

気心が知れた人にも、パブリックなシーンにも、言い方ひとつでこれほど距離感を自在に操れる挨拶って他にないよね。きっと。

それにしても、おはよう。が持つそこはかとない清廉さはどこから来るんだろうね。冬の湖畔の上澄みを掬い取ったような透明感はさ。最初につく「お」が「御」のような気品を醸し出しているのかしら。おはよう。と比べたら、こんにちは。は、真夏の向日葵ほどに陽気にすぎるし、こんばんわ。にはするりと踏み込んでくるような図々しさを感じるほどだよ。

おはよう。

「眠りとは、死の疑似体験である」と言ったのは誰だったか。なるほど、身動きひとつとれない点では死と眠りは限りなく近い。そこから目覚め、最初の挨拶である、おはよう。そこには生の喜びが満ち、再会への感動すら覚えるのではないか。

言いすぎた。ような気がする。

僕がなぜ突然朝の挨拶に言及しているかといえば、大晦日にnoteを書こうとしたのはいいけれど、2021年を振り返るにも、左ききの道具店を語るにも、時間がかかりすぎるなー、なんて思いながら書き出した最初の言葉が、おはようございます。だったからだ。

そういえば、僕は平日は毎日Twitterで「おはようございます」を含むツイートをあげている。Twitterは6割ぐらい仕事なので、職場に入るような感覚があるのかしら。多少なりともね。

大晦日を意識したnoteに、僕が最初に朝の挨拶を書いたのは、きっと2022年のはじまりに向いていたんだ。たぶんね。そんなことを思いながら、年内最後のnoteとします。今年も一年、お付き合いいただきありがとうございました。来年はもう少し更新頻度を上げていきたいところです。

それではみなさま、良いお年を。

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