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夜の桜とあみだくじ。

昨日の夕方、近くの公園に家族で花見にいった。

焼きそばと五平餅とフライドポテトをかじりながら、花びらが落ちてくるたびに、キレイだねー、と大きな声で教えてくれる娘を膝に抱きながら、ぼんやりと公園を眺める。市内でも割と大きなその公園は、華金と歓迎会と満開の桜が絶好に重なって、酔っ払いだらけだ。

脳みその引き出しを開ける記憶のトリガーというものがあるとすれば、僕にとって桜は、間違いなくそのひとつだ。  

花びらを頼りに記憶を辿ると、中学生の入学式の桜をはじまりに、様々な場面がフラッシュバックしてくる。マラソンで息を切らしながら見上げた桜、徹夜で麻雀してラーメン食べた帰り道の桜、初めての彼女と見た桜、男だらけで早朝に見にいった一本桜、満開の桜の下をドライブして片思いを告白した、なんて甘酸っぱい記憶もあったあった、ありました。  

そんな思い出に浸っていると、最近、昔の話をすることが苦手になったな、ということに気づく。

若い頃、それこそ20代に地元の連中と集まれば、ひっきりなしに昔話が出てきたものだ。だいたい中学か高校の頃の話が中心で。あいつがバカをした、アホをした、とビール片手に大爆笑。で、決まって「あの頃は良かったよなぁ」なんてつぶやくやつがいて。「もし人生を戻れるとしたら何歳がいい?」なんて、ガキみたいな質問を誰かがして、みんなガキだから嬉々として乗ってくる。

みんなの答えは、大体節目に集まる。中学受験、高校受験、大学受験、就職活動、あとは当時の彼女と付き合う別れる、あたりに。ときどき「保育園!」みたいな猛者もいるけれど、そういう奴は無視するに限る。  

とにかく、前提としては「今の記憶を残したまま過去に戻れたら」というやつだ。 ありふれた酒の肴だけど、これ、真面目に考えたらどうなんだろう。本当に戻れたとしたら、戻りたいか? 

いやね、そりゃgoogleとかamazonの上場のタイミングで株を買って大儲けしたい的な下品な考えは頭をよぎる。でも、それは下品すぎるから除外するとして。純粋に人生を巻き戻せるとしたら……面倒だよなぁ。 あの青春時代のあらゆる葛藤を、不自由さを、もう一度引き受けるわけでしょ? やっぱり、それは御免だ。それに、おそらくだけど、巻き戻しても大して変わらない気がする。

それは、僕がゴールを定めて進む目標志向のタイプではなく、目の前の選択肢を状況対応で選んできたからだと思う。有り体にいえばその瞬間の自分の感覚を信じてきた。だから、きっと過去に戻って、もし違う選択をしたとしても、たぶん今の自分のように年を取るんじゃないかしら。  

……あ、でも、一緒にいる家族は変わるよね。それは間違いなく。妻との出会いなんて、そこに至るまでのあらゆる選択肢が互いに一致しないと絶対にない。使い古された言葉でいえば奇跡だし、もっと実感値に近いのは、ひどく頼りないあみだくじだ。 

ときどき目の前に横棒が現れる。それをその都度、頑張って渡りきる。僕にとって選択肢は、50:50で選ぶものというより、決まっている(と思っている)道を渡るためにどうするか手段を選ぶ、というものに近い。

僕の膝に座って口をベタベタにしながら五平餅を頬張る娘を見て、この瞬間があみだくじの結果だとしたら、なんにもわるくないや、なんて思ったりした夜の花見だった。  

さて、4月。新しい元号も決まったし、いろいろ始まっていくね。noteの更新頻度も少しあげようと思います。

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