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世に打って出るためにフェスティバルを作ろう - リアル脱出ゲームに至る道

28歳にしてついに世に打って出るつもりでロボピッチャーというバンドを結成し
「さあやってやるぞ!」
と意気込んでいる僕に後の人生を大きく変えてしまうキュートな出会いがあった。
あるライブハウスのオーナーさんに誘われて行った、磔磔という京都のライブハウスで行われていた音楽イベント。
会場は満員ではなかった。
50人くらいのお客さんがいて、4つくらいのバンドが出ているイベント。
最初にモヒカンの背の小さな司会の男性が出て来る。
たどたどしい言葉。つっかえながら自分がこれらのバンドのことをどれほど好きなのかを語っている。
しかしたどたどしい。
気持ちはたぶんこもっているのだけど、なかなか言葉が届いてこない。
途中はもう目を閉じてしゃべりだした。誰に向かってしゃべってるのかわからなくなってくる。
そんな司会に紹介されてライブがはじまった。

最初に信じられないくらい小さな声で歌う、ぼさぼさの髪の毛の男性。
22歳くらいだろうか?
まだ学生かもしれない。
小さな声で歌うというより、小さな声でしか歌えないのかもしれない。
発声がなってない、というレベルですらない。
聴かせる気がないのかもしれない。どこかへ届くのか届かないのかわからない。
届けようとしているのかもわからない。
でも会場はぴんと張りつめて彼の言葉とギターを追いかけている。
僕は最初退屈で、ぼんやりしながら聞いていたのだけど、最後の方にやっとピントが合って急激に言葉が入ってきた。
それは詩人の言葉で、作詞家の言葉ではないように思えた。

その後に出てきたのはやたらと複雑なリズムの3ピースバンドで、テンポもリズムもどんどん変わる複雑な音楽。
しかしその複雑さにメンバーの三人もついていけていないようだった。
ただ、そこで鳴っている音はひたすらにひたむきで熱く、その場所にその音楽があることは間違いなく、鳴りやんだ後も「さっきまで確実に音が鳴っていた」ことが証明され続けているようだった。古い酒蔵を改造して作られたそのライブハウスには、ずっと彼らの叫び声の残響がこだましていた。

そのイベントで司会をしていたのが後に京都を揺るがす名司会者になるMC土龍。
弾き語りをしていた小さな声の男がゆーきゃん。
そして最後の騒々しいバンドのギタリストが飯田仁一郎だった。

僕はこのイベントの一年後彼らと「にしき屋」というイベント集団を作り、そこからこれまでの静かなニート時代が嘘だったように騒々しい人生がはじまりだす。

ゆーきゃんとはいろんなライブハウスですれ違っていたので顔見知りではあった。
仲良く話すようなことはなかった気がするが、楽屋でいくつかの言葉を交わした記憶はある。
しかし僕らがちゃんと出会って何かに向かって歩き始める最初のきっかけを作ったのは、このnoteではなにかと話題に出て来る、あの編集プロダクションのT社長だった。
Tさんに連れられてふらっと入った焼き鳥屋「どん」でMC土龍がバイトをしていた。
僕はこっそり「あ!こないだのイベントで司会をしていた人だ!」と思った。
当時京都の音楽のメインストリームからも大きく外れたネガポジというライブハウスで活動をしていた僕にとっては、先日みた磔磔でのライブイベントが京都の中心点に見えていたので、なんか少しまぶしく見えたのを覚えている。
T社長はMC土龍とずいぶん親しいようで、気さくにさまざまな話をしていたのだけど、その時ポロリと土龍くんが「西部講堂でイベントをしようと思ってるんですよ」と言った。
あ!
と僕は思った。

西部講堂。

あの時代に京都に生きていなかった人に、西部講堂の特別さを説明するのはとても難しい。
それは京都大学の向かい側にあるパンパンに入れば1000人くらいを収容する空間で、毎週様々なイベントが行われていた。
忌野清志郎、ポリスなどがライブをする京都随一のメジャーな会場であり、京大の学生が公演を行う学生のための場所でもあり、様々な場所から人が集まり前衛舞踏や映像や演劇や音楽の実験が日夜行われる場所であり、常に街を挑発する新たな文化と、長い時を越えて守られてきた何らかの大切なものが交差する、異様な空気を纏った場所だった。

1994年、大学一回生だった僕がはじめて西部講堂に行ったのは、村八分のチャー坊追悼コンサートだった。正直に言うと村八分は名前は知っていたものの熱心に聴いていたわけではなく、音楽好きの友人にふらっと誘われたからついていっただけだった。
その日の京都はやたらと熱く、空調などない西部講堂の中はさらに熱く、密集する若者たちの体温は高く、汗で身体に引っ付きまくるTシャツをペタペタと引き剥がしたりしながら、僕はその空間にいた。
裸のラリーズが爆音のノイズを出していた。
まだ結成間もないソウルフラワーユニオンが祝祭を現出させていた。
最後に出てきたボ・ガンボスは神々しすぎて、あの時彼らが何かを命じていたら、きっと僕らはどんなことでもできただろう。
そこにあったのは埃のにおいと、持ち込まれた照明の光とスピーカーの音。
そんな無機物なはずのものが融合して、マグマのようなエネルギーが全方向に放出されていた。
ひしめき合う若者の汗に濡れた肌と、憧憬と未来への畏怖が混ざりあった希望に似た何か。
それは一言でいうと自由だった。

何をつくってもよい
何を思ってもよい

あるロックスターを追悼するその場所が、音楽を中心にまとまり、一つの有機的な生命体のように動いていて、すべての瞬間において「どうなってもよかった」
行き先は決まっていなくて、どんな感情を持ってもよくて、この人生の中でなにをしてもいいのだと僕はわかった。
望んでいたものがそこにあった。
それはルールのない祝祭だった。

西部講堂から一歩出ると外は砂利が敷き詰められた駐車場で、中よりも幾分ましな涼しい風が吹いていて、たくさんの若者が座り込んでいた。
僕も砂利の上に座り込みながら、今までの人生で感じたことのない憧れを強烈に感じていた。
あのイベントに出演したいと思ったのか
あんな風に追悼されたいと思ったのか
あんなイベントを作りたいと思ったのか
その全部だったのか

その時はわからなかったけれど、とにかく何かに強く強く憧れていた。
あの時に抱いた憧れの欠片のようなものは、まだ今でも僕の中に埋まっている。

「西部講堂でイベントしようと思ってるんですよ」
とMC土龍は言った。
おそらく2002年のはじめごろ。
彼のバイトする焼き鳥屋で。
ハラッパ=カラッパ解散直前。
ロボピッチャーの正式な結成直前。
僕の人生はまだ夜で、夜明けの気配もない時に。
その言葉はまるで「もうすぐ夜が明けるよ」と告げているように思えた。

「俺もやりたい」
と飛びついた僕の言葉はあの時どんなふうに響いたのだったか。

「やりましょう!」とMC土龍は応え、後日一緒にイベントを作ろうとしているゆーきゃんと三人で会議をすることになった。

三人で最初の会議。
ゆーきゃんとMC土龍はまだ大学を卒業したばかりの若者で、僕は何も持っていない28歳のニートだった。
そしてこの時の会議で「いきなりでかいイベントやるのは無理だから、ライブハウスでのイベントを月に一回くらいやって、年に一回でかいイベントをやろう」ってことが決まった。
その時僕らはボロボロの服を着ていたけれど、何かがはじまりそうなワクワク感は確かにそこにはあった。
僕は「ロボピッチャー」というバンドを新しく作り、「CLAP」というフリーペーパーを作り始め、今から京都の音楽シーンにイベントで殴りこみに行くのだ!と思っていた。
よし!この人たちとやってやる!と思っていた。
ボロボロの服は着ているけど、心は錦だ!
という思いを込めてイベントタイトルは「ボロはキてても」にして
団体名を「にしき屋」にすることにした。
名前が決まるとさらに何かができるような気持ちになった。
このチームを大きくして、世の中に羽ばたくのだ!というような気になってくる。

その時ゆーきゃんが突然ぽつりと言い出した。
「あの、これはすごく大切な事なんですが。イベントに一番重要なのって花だと思うんですよね」
花?
「はい。まず花について考えないといけないと思うんです。で、僕の友人が花屋でバイトしているからこのチームに入れてもいいですか?」
あ、うん。うん、いいよ。花?うん。まあ、いいよ。うん。
というようなやり取りがあって、イベントにとって一番大切な「花」を担当する人が最初の仲間になった。
経理よりも、制作よりも、事務よりも花担当者がにしき屋の最初のスタッフに決まった。

さあ名前が決まった!花担当も決まった!
じゃあ早速ライブハウスを押さえてイベントやろう!
ってことになり、第一回「ボロはキてても」が京都のウーララというライブハウスで行われることになった。
そしてそれはロボピッチャーのファーストライブでもあった。
僕は編集プロダクションで働きながら、新曲を作り、ロボピッチャーのリハーサルをし、イベントを制作した。
チラシを作って、京都中のライブハウスやカフェに配りまくった。
フリーペーパーの配布もやっていたから、チラシを街に配るのは得意だった。
ガシガシと人生が動いている感じがした。
毎日毎日やることがあった。
ここで自分が波を起こせなかったらもうおしまいだ!っていうくらいの気持ちはあったと思う。

2002年5月。
ライブ当日。
友人たちに片っ端から声をかけて、ハラッパ=カラッパのお客さんたちにも宣伝して、あらん限りの力をかけて集客して、50人くらいのお客さんがライブハウスにいた。
ゆーきゃんが歌い、MC土龍が司会をして、花が飾られた。
ロボピッチャーはそこで最初のライブをした。
どんなライブだったか、実はあまり覚えていない。
できる限りの事はしたし手ごたえもあったけれど、完璧じゃないと思った記憶はある。
もっとバンドとしてやらなくちゃいけないことはたくさんあった。
しかしイベントはちゃんと盛況だった。
ものすごく集客できたわけじゃないけれど、ガラガラでもなかったし、みんな楽しそうだった。
僕とゆーきゃんとMC土龍は打ち上げでたっぷりと酒を飲み、これは続けていこう!どんどん膨らませていこう!っていう話をした。
泥酔した僕は、そのイベント打ち上げ後のblogにこう書いている。

我々は、なにかを出来る生き物なのだと、あらためて確認しました。
ここではないどこかへと、もしもいきたいのであるならば、僕は、その思いをすべて、ロボピッチャーにかけることにする。

原文ママ笑
読点の多さが気になるけど、とにかくロボピッチャーに対しても「ボロはキてても」に対してもそれなりの手ごたえを感じたみたいだ。
そんな風にロボピッチャーとにしき屋ははじまった。

僕らはそのたった一回の成功に気を良くして、さっそく西部講堂を押さえにいく。
5か月後の西部講堂を予約したのだ。
今考えると信じられないほど無謀だ。
僕らはまだ50人しか集められないのに、なぜか1000人も入る講堂を二日間予約したのだった。
でも何かがはじまるワクワク感が僕らを包んでいたし、とにかく何かをはじめないと現状を変えられないこともわかっていた。
なにかでかいことをやらなくちゃならない。

ちょうどそのころゆーきゃんとMC土龍から紹介したい人物がいる、として紹介されたのが飯田仁一郎だった。
飯田君との最初の会議は京都三条のスターバックスで。
3時間くらい遅刻してやってきた。
そしてちっとも悪びれてなかった。
「いやー。遅れたわー」とか言いながら席に座った彼は、いきなり「ロボピッチャーのデモ音源聴いたよ!めちゃいいわあれ!」と言い出した。
彼は僕の6歳ほど年下だったのだけど、今に至るまで敬語で話されたことは一度もない。
そして彼はその時すでにLimited Express(has gone?)というバンドで「食いしん坊バンザイ」というイベントを京都で主催しており、集客も知名度も僕らなんかよりうんと上だったので、年下という意識はあんまりなかった。
なんなら「おお、なんかすごい人が来たな」とちょっと緊張してた気もする。
「でかいことやらな変わらんのよねー」と彼は大きな眼鏡をかけて、大きな顔で、大きな声で、大きなことをいった。
「西部講堂で2日間で2000人集めたら変わっていくと思うねんなー」といった。
とにかく態度がでかいとか、横柄とかそういうレベルじゃなかった。
僕とゆーきゃんとMC土龍は圧倒されて彼の話を聞いていた。
それは特に根拠があったわけじゃないのだけど、たしかにどこかにたどり着いてしまいそうな話だったし、今目の前にある仕事をしっかりとこなしていけば、とんでもなく高い場所にいけそうに思えた。
西部講堂を押さえた今、目の前にある道はぼんやりした幻想ではなく、確固たる現実の道だった。ここを歩いていけば今いる場所から脱出できる。
「やろう」と僕らは鼻息を荒くして立ち上がった。

毎月やっている「ボロはキてても」の特別なバージョンだから「ボロフェスタ」という名前をつけた。
今考えてもかっこいいフェスのタイトルだ。
この名前を世界中に轟かせてやる、と僕は思った。

誰にも選ばれなかった人生を変えるのだ。
もう誰かに選んでもらうのを待つのはやめだ。
僕らが動き出して、世界中を選んでやるのだ!

そんな風に僕らは動き出した。
未来は明るい気がしたし、何もかもうまくいくような気がした。

その時の僕らは浮かれていて、まさかその後にあんなに大変なことが待っているなんて思いもよらなかった。


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