見出し画像

走ることで『遅いインターネット』に触れた日と、これからについて。

 おはようございます。カキカキと申します。

 久しぶりに文章を書くに当たって、少しの分量ではあるもののチグハグな部分が散見されるかもしれません。それでも書きたいことがあるわけで、書くことの豊かさに触れて楽しもう!みたいなところがあるので、ある程度ご容赦くださるとありがたいです。


走ってみた日。

 先日公開されたあたらしいwebメディア「遅いインターネット」に掲載されている遅いインターネット宣言2020を読んで、昔に自分で書いたnoteを強く思い出した。おそらく対談を読んだ時とnoteを書いたときとで同じ思いに至ったからだと思う。このnoteだけとは言わず全ての過去noteは、今読み返すととても恥ずかしい気分になる。けど、世の中的にはスマホネイティブで溢れる情報群と共に成長してきたいわゆるZ世代に分類される僕が、限りなく自由な距離感と角度を用いて情報に接し、建設的に考えることができた瞬間だったことは間違い無いと思う。

 そのnoteは、散歩兼ランニングをしていた時に思いついたことを帰宅後に書きなぐったものになるのだけど、この時僕はその場の気分気分で歩いたり走ったりしていた。疲れたと感じたら堂々と歩き、ポカリを買って土手に座って休憩していた。これはまさに、PLANETS vol.10での『走る人』を読んでから心に残っていたことを(主に宇野さんのランニングの仕方に憧れて)少し時間と精神に余裕ができてからランニングしたくなった時に実践できた、ということなのだと思う。

 ランニングをしている間ずっと、風景を観ていろんなことを考えていた。走っていて驚いたのが、今までそこあったものが色んな角度から見られるようになってそれらについて強く考えられることだった。例えば、なぜこんなに長い距離を走っているのに風景が変わらないかといえば、同じような大通りの道を走っているからだ。もっといえば、この土地に20数年間住んでいるにも関わらず、そのような道しか僕が知っていないということになる。でも世界はそんなに狭いわけでは無い。頭ではわかっていることだ。では、一つ隣の道からその隣の隣へ行ってみよう。そこには、一見僕が住むのと同じように見える住宅街が広がっていて、その全ての家屋に僕と同じような生活が存在していることが体感的にわかる。そしてそこに住む人たちの人となりや生活は下手をすれば均一に捉えてしまいがちだが、それぞれに本当は独自の世界があることがわかるし、そのストーリーを想像すると勝手にワクワクしてしまう。
 今まで見えもしなかった角度の視点について考えることは、確実に自分を豊かな気分にしていた。新しい価値を無限に生み出せる空間の一端を担っているような気がした。この時の充実感を思い出してしまうと、今からでも走りに行きたくなってしまいそうだ。

継続的でなければ無価値なことはたくさんあるし、それは多くの場合に日常に即している。 そのようなものが結構好き。

 一過的に快楽を得るようなものは確実に人を豊かにはしない。何事も未来に向けて価値を生み出せていないと意味がない。自分でも極端だと思うけれども、それが多くの場合、本質的なことだと思う。

 一過性のものに対して、日常に溶け込んでいて違和感がないものはなんだか前向きな気がする。例えば僕の場合、朝起きたらまず布団を正確に畳むこととか、サラダチキンとヤクルトを胃袋におさめたら必ずコーヒーを求めるとか。週に1、2回は銭湯でもろもろ整えたりとか、新しい銭湯を開拓するとか。

 そして実際にはこういったことは一定の距離感を保つことが重要になる。それが継続性を持たせる上での条件だと思う。もし近すぎれば、完璧主義的な成分が強まることになる。完璧を求めるあまり一つの工程に時間がかかりすぎることで、行動数を制限させられるし時間を余分に使ってしまう。距離が離れすぎていれば怠惰成分が顔を出し、もはや考えることから真逆な方向に歩かされることになる。距離感を主体的に決められない日常は必ず破綻する。

 元からそう行動している人には当たり前に聞こえるかもしれないが、限りなく自由にものを考えるためにはその機会となる体験を自らが創りにいく、またはアンテナを常に張って適した環境を探す、みたいなことをしないといけないのだと思う。それが一歩目として機能するもので、それは例えばランニングだ。そしてそれは自分の日常として設定するとより良い距離感を探しやすい気がする。
 だから、“価値を持つ発信のための考えるという行為”を継続的に行うには実際に近くの日常を変えていくしかない。でもそれは急に変える必要は全くなくて、自分や、必要とあらば周りの人と適宜相談しつつ、少しづつ形を変えて行くことが大切なんだろう。小さな成功体験の蓄積は確実な自身と勇気になるし、継続性を自らが持つためにもっとも必要だと僕は思う。

自然と走ることや書くことが目的となるように。

 『遅いインターネット』と『シン・ニホン』がNewsPicksBookで配信されてからずっとドキドキしているが、実はまだ『遅いインターネット』の序章と最後の方の[付記と謝辞]の前後しか読めていない。ただ、webマガジンの方での西野亮廣さんとの対談でも語られていたように、やっぱり宇野さんにとって走ること自体が目的であると同時に思想的な部分で核心的なことだったんだと再確認できた。そして走ることを通じて図らずとも遅いインターネット的な世界観を共有することができていたと思うととても嬉しい。PLANETS vol.10『走る人』で走ることに形容しようのない魅力を感じてから、まずは走ってみようと行動した自分を本当に褒めたい。
 現在は走ることから遠ざかってしまっているけれど、自由な距離感で考えることができていたことを思い返すと、自発的にランニング欲が湧いてくることがわかった。日常の中でふとした瞬間に「あ、走りたいな。走ろう。」と思えるように、色んな方向付けをして無理なく走ったり歩いたりしていきたいな。


 自分に傷跡を残すほど負荷をかけてするまででもないが、一定の努力をして豊かさを手に入れられる。のようなことが、今の僕には限りなく自由に感じられる情報との関係性なんじゃないかと思っている。そしてこれから四月になれば、僕には就職という大きな環境変化が待っている。未経験の変化に対してより多くのチューニング作業が必要になっていくんだろう。

 慌ただしくて時間の経過が感じにくいような時でも走るように自由に、ゆっくりと大事なことについて考えていけるようにしていきたいなぁ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?