見出し画像

子供って選択肢がないよなあ。

 ぼくは、学生時代によく自転車に乗って走り回る子供でした。
 小学校では公園から公園まで、公園ないですら自転車で駆け回る。高校生には、自転車で遠出の旅に突然出かけることもあった。東京の墨田区から千葉県九十九里まで走った。その距離は確か、70キロくらいだったか。

 自転車に乗るときは大体、が友達が前を走っていた。道を把握してなかったからだと思う。だから、自転車を漕いでいる記憶といえば、大体が友達の背中か、タイヤの先に何があるのかだ。
 考えていたのは、どの程度の段差であれば、どんな乗り越え方をすればいいのか、集団で自転車をこぐ時に円滑になるための注意点はどんなだろうかとか、そんなばかりだった。
 要は、視野が狭かったのだ。周りの景色など、おかまいなしだった。

 今、散歩をしてて思うのは、自分と周りの世界との距離ばかりだ。自分は確かに存在しているのに、その周りの世界を認識することなく、恩恵を享受する意味を考えることなく生きていること。
 物心ついた時からネットとゲームがあってそれにのめり込んでいた。そのためか、ぼくの意識は最近までおかしなところにあったのではないかと思うことがある。確かに家にいるのに、思考は宙ぶらりんになったままの不安定な予感がしていた。

 だから散歩をしていると、ぼくは世界との距離を考えることになっているのだと思う。
 例えば、そこに街があったことは知っているし、通っていた高校は確かにある。だけども、それらは知っているだけ、意識の中にあるだけで、直接的に身体に基づいて感じたことはなかったのではないか? と思う。
「そこにあることは知っている。意識している。ただ、感じたことがないだけ。」

 もしかしたらこんなことを考えることに意味はないかもしれないし、正確に言語化できていないかもしれないけれど、散歩をしている不思議な感覚になるのは事実だ。街と自分の接続性を感じることは初めてだからだとは思うが。

子供って選択できないよなあ。(過程)

 ぼくは幼少期から、大人しい子供と言われてきた。欲が無いとも言われてきた。
 ぼくには兄が二人いた。どちらとも実にぼくの面倒を見てくれた。
 ぼくの両親は仲が悪かった。よく目の前で喧嘩をしていた。それをずっと何も言わずに見ていた記憶がある。

 今考えれば、ぼくは周りの人間を観察して生きてきたのだと思う。他者がいて、初めて自分が成り立っていたのだと思う。
 だから、ぼくには自分の意思が無いように見えていたのだろう。

「かっちゃん(=ぼく)は大人しくていい子だねえ。」
「かっちゃんは、欲が無いねえ。いい子だねえ。」

 この類の褒められ方は山のように受けてきた。親に褒められると嬉しいもんだから、よりそうなるように努めた。
 いつからか、あるいはものを考えるようになってからか、ぼくの“意志”のようなものは限りなく薄まっていた。

 ぼくの意志の弱さは、あらゆるところに影響している。就活するときの大事な決断にとても時間がかかったり、間違えてしまうこともある。一番やばいのは、一度決めたことを簡単に変えがちなところだ。あまりに軽率だし間違えた選択をしやすいので、これはガチで直そうと思っている。




 さて、ぼくはこうやって生きてきたけど、実はぼくはある程度は幸せだ。

 後悔とか、こう育ててくれたらよかったのにと全く思わないかと言われれば嘘になるが、今までの人生は結構好きだ。今までの人生が、今のぼくが一番大切に思うものを作り上げてきたからだ。その事実は変わることは無いと思う。
 過去がぼくを構成しているし、今がぼくを見せている。過去が無意識のぼくをデザインしているし、過去が今を映している。
 それらが全部間違っていると言うことは、今の自分を否定することに他ならない。自分を否定することは嫌いなので、あまりしない。未来を考えることができなくなってしまう気がするし、何より幸せなものを見逃してしまう気がするからだ。
 だから、今までの人生を否定することは絶対にないし、今に感謝することを忘れたくは無いし、ぼくの大切なものは変わらないと思っている。

子供って選択できないよなあ。(転用)

 ここからが転用先なんだけど、子供って選択肢をそもそも持っていないことが多い気がする。

 子供を定義すると、大人ではないもの。大人とは、社会に適合した人間だと定義してみる。
「子供内にも社会は存在するのでは?」
 確かに。では、大人社会に属していない人間を“子供”と定義したい。


 で、子供には考える術が少ないんじゃ無いかな、と思っている。
 子供に好きなこと、やりたいことがあったとしても、それを実現させるにはいくつかの行程を踏まなければならない。行程は心理的なものもあれば、倫理的、社会的、身体的、経済的、などがあると思う。
 つまり、子供の意志(=好きなこと、やりたいこと)を実現させるのには、まず子供の心内でいくつもの関門があって、やっとの事で口に出したり手を動かしてみてもまた障壁がある。

「子供はやりたいことを徹底的にやったほうがいい」

的な話をよく聞くが、これの実現には圧倒的な数の壁があるため、現実にはとてつもない数の子供の芽が摘み取られているはずだ。
 心理的障壁には子供自身の問題ももちろんあるが、結果から見れば、その子供の芽はイノベーションを起こしたかもしれないことは否定はできないはず。

 意志の実現のためには大人のようにうまいことあの手この手を考えないといけないわけだが、子供には経験値が足りない。
 だから、子供にはできる限りの視野を与えて、考える術を与えて、選択肢を広げていって、一番やりたいことをやらせることが大事なのかなあ、と思うのです。
 それが、他者を輝かせることに一番の喜びをもつぼくの役割なのかも、と思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?