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「表現の自由」と「適切な規制」の関係を見つめ直す

コミックマーケットが近付いているからか、
生成物の販売は「表現の自由」なのかどうか、
それを規制するのは過度な「表現規制」に繋がるのではないか、
という議論をSNSで見かけるようになりました。

ただ、各々にとって都合よく解釈し、
便利に使われるだけな場面も見かけましたので、
(SNSはそういう場だと言えば、そうなのですが)
この記事では今一度「表現の自由」とは何か、
規制、ルールとの関係性をどのように考えるかを、
見つめ直すキッカケになれば嬉しく思います。

最初に、この記事の目的は、
「表現の自由」と「生成AIの規制」は対立しない
ということを明確にすることが主目的にはなります。

そのため、論拠を示して何かを証明する、
というような話の展開はしないつもりです。
「表現」を取り巻くさまざまな状況を巡り、
今何が必要とされるのか、考えて頂ければ幸いです。

それではまず前提となるお話として。
表現規制を強く懸念する方々の事を理解して貰う所から、
始めていきたいと思います。


漫画・アニメの文脈

SNSを眺めていると、
「表現規制というものに、過度に思える程の危機感を覚える方がいる?」
というように感じた事がある方も、いるかもしれません。

それは、今の若い方には想像付きにくいかと思いますが、
かつては漫画やアニメが好きというだけで世間からオタクと馬鹿にされ、
その「オタク」呼びの使われ方も明らかに差別的で、
犯罪者を見るかのような目で見られる時代があり、
非常に肩身の狭い思いをしていた、という事に起因していると思います。

何か事件の報道があるたびに、
「容疑者の部屋に漫画があった!」「アニメのビデオを持っていた!」
といった内容が事件性と関連がなくとも大々的に取り上げられ、
お茶の間に向けて報道された時代があったのです。


自分は当時、何故メディアがそうするのか分かっていませんでしたが、
以下の記事にあるような、凄惨な事件がキッカケで始まったようです。

一時期ネットで既存メディアが「マスゴミ」などと呼ばれ嫌われたのは、
この反動も大きかったのではないかと思います。
自分もオタクであったので、
子ども時代にマスコミへの怒りはかなり溜め込みました。

それから時代は進み、漫画やアニメは当たり前になりましたが、
2010年にも表現規制の話が持ち上がってきました。

このように文化的な表現の自由は、闘って勝ち取ってきた側面もあります。

なので規制に強い懸念を示す方と規制の是非を話す時には、
背景にこういった闘いがあったことを理解しておかないと、
視点のズレから論点がすれ違ってしまい、
本来敵対しなくて良い人達と対立する可能性がある事には注意が必要です。

それでは、そのことを頭の片隅におきながら、
「表現の自由」について、他の表現世界の事例も見ていきましょう。

現代アートの文脈

現時点では、法的に生成AIの生成物に著作権は認められていません。
では今後はどうなるのでしょうか?

対象が個人か多数かの違いはありますが、
「他人の著作物を”変容”させた」作品は合法か否か
この点においては、生成AIと現代アートは近い所もあるため、
今後を探る上でヒントになりそうな気がします。

では現代アートにおける、
”変容”と”フェアユース”の文脈を少し見ていきましょう。

”変容”と言えばこの人。
他人の撮った写真を加工するスタイルの現代アートで、
世界的に有名なアーティストであるアンディ・ウォーホル。

彼も作品全てが最初から許容されていた訳ではなく、
「表現の自由」を勝ち取っていく闘いの歴史がありました。

以下の記事に良くまとまっています。

このように長い時間をかけ、
現代アートは少しずつフェアユースの範囲を広げてきましたが、
上の記事は古いものであり、
記事の中で語られていたプリンスシリーズは、
最終的に最高裁で逆転敗訴、著作権侵害となりました。

この記事から判決の理由を引用すると、

「新たな表現、意味、メッセージは、複製利用が十分に明確な目的または性格を有するかどうかに関連するかもしれませんないが、それ以前に、第1の要因の決め手となるものではありません。今回のケースにおけるゴールドスミスの著作権を侵害したとされるアートの具体的な使用法は、アンディ・ウォーホル財団がコンデナスト・パブリケーションズにオレンジ・プリンスをライセンスするというものです。これはプリンスに関する雑誌の記事で、プリンスを描写するために使用されており、オリジナルの写真であろうとアンディ・ウォーホル財団のアート作品であろうと、実質的に同じ目的での利用となります」

https://gigazine.net/news/20230519-supreme-court-andy-warhol-prince-art-copyright-infringement/

つまり”変容”があれば認められてきた現代アートの文脈上といえども、
元画像と実質的に同じ目的での利用・享受がされるものである場合は、
フェアユースとは認められない。そして、
「元画像の著作権を侵害している」という事になったようです。

ただ、このように2者の権利がぶつかった場合、
何を基準に、どう考えれば良いのでしょうか?

そのヒントは、日本の場合は憲法にある気がします。
「表現の自由」とは、憲法に記された言葉だからです。

憲法に保障されている「表現の自由」

「表現の自由」とは、
重要な人権の一つとして憲法上で定義されています。

じゃあ自分勝手に何をしても良いのか。
というと、そうではありません。

なぜ「表現の自由」が憲法に書かれているかと言えば、
どちらかというと時の権力による言論弾圧によって、
独裁政権が樹立してしまう事を防ぐ意図が大きいとは思います。
日本はかつて軍国主義が台頭してしまった過去があるので、
とりわけ大きな意味を持つ権利ですね。

なので当たり前ではありますが、
「各々が無責任に好き勝手して良い」
ということを保証しようとして書かれたものではありません。

例えば外務省のページを見ると、以下の条件が付随しているようです。

他方、表現の自由は、内心の自由とは異なり本質的に社会性を帯びていることから、例えば、公然わいせつ、わいせつ物頒布等の禁止(刑法第174条、第175条)、他人の名誉の毀損、侮辱、信用の毀損の禁止(刑法第230条、第231条、第233条)、騒乱の禁止(刑法第106条)等「公共の福祉」を理由として一定の制限が課されているが、これらの制限は、いずれもこの条約第13条2の規定に合致する必要最小限のものである。 

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/9605/5a_013.html

他にも、法務省のページには以下のような記述があります。

表現の自由が保障されているからといって,ヘイトスピーチが許されるとか,制限を受けない,ということにはなりません。表現の自由を保障している憲法は,その第13条前段で「すべて国民は,個人として尊重される。」とも定めています。

https://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken05_00037.html

つまり「表現の自由」とは、
他者の人権や公共性を害するのはダメだよ。
それを守る限りにおいては自由にして良いよ。
ということになるのではないでしょうか。

自由には責任が伴う

それと似たような意味を持つ言葉として、
「自由には責任が伴う」とはよく聞きますが、
その「責任」とは、上述の内容を踏まえると、
「各自が自由に振舞う上で、一定のモラルを守る事」
であると言えると思います。

この「責任」の部分の解釈については、
以下2つの記事がとても分かりやすい解釈だと感じたので、
参考に貼らせて頂きます。

ただ、この責任、一定のモラルというのは、
法律で明確に定められるものではなく倫理観の話になってしまうので、
個人間に倫理観の差があると、ぶつかり合いが起きるわけですね。

でも、漫画・アニメは規制するかどうかが大きな問題になったのに、
ゲームはグランセプトオート(以下GTA)など、
明らかに子どもの教育に良くなさそうなものも平気で売っています。

明らかに大きなぶつかり合いが起きそうなのに、
その辺りって、どういうことなのでしょうか?

ゲームの文脈

まずここでは、
ゲームは問題視されていない、規制が起きていない、
という事を主張したい訳ではありません。
以下のように規制は、される所ではされているのです。

しかし、「表現の自由と規制の闘い」と言えるようなレベルにまで、
騒動は発展していないように感じます。
その理由の一つは、ゲーム業界には「責任」を取る体制、
「自主規制」があるからではないでしょうか。

その自主規制として働く「CERO」は、
以下のような厳密なレーティングを行い、
それを開示・表記している事で、
消費者が触れる前に「有害の度合い」を示してくれています。

また、あまりに過激な表現には、
日本市場に入るためにはCEROの監査を受けデチューンが必要となります。
(ここで言うデチューンは、過激表現の軟化)
デチューンしてもCEROに許容されないレベルで過激なものは、
日本国内において発売する事は出来ません。

それ故にコアな洋ゲーファンからは憎まれがちなCEROではありますが、
「自主規制」により社会への責任を果たしているため、
その事が業界の外からの規制論を抑制し、
実質的にゲーム産業を守る事にもなっている
とも考えられるでしょう。

ちなみに、これを書いている途中で知ったのですが、
CEROのZ区分が生まれたきっかけは、まさにGTAだそうです。

CEROの存在は、表現を巡るトラブルのリスク軽減ができる点で、メーカーや販売店にとってメリットの大きい存在ではありますが、プレイヤーが自分の好きなゲームを守るということにも繋がります。

CEROのZ区分が新設されたのは、神奈川県による「グランド・セフト・オートⅢ」の有害図書への個別指定がきっかけでした。それまでは、A~Dのレーティングと同様、18歳以上推奨という意味合いのレーティングしか存在しませんでしたが、この一件を受けて、CEROは自主規制の範疇で18歳未満への販売を禁止するZ区分を設けました。

https://www.bengoshierabikata.com/2628/

上記引用は以下の記事からですが、
CEROについて詳しくまとめて頂いているようです。

つまり、
「Z指定だけは許容できないから、Z指定はまとめて有害図書にしよう。」
という公共の判断への、業界側からの協力は、
Z指定ほど過激ではないゲームの表現を守る事にも繋がっているのですね。

生成AIと、自動運転AIの比較

さてここまで振り返って、どうでしょうか。

自由には責任が伴うと言いますがそれは、
「社会的に責任ある態度こそが、自由を保障される」
とも言えるのではないかと思います。

誰かの権利を侵さない。
公共の利益を害さない。
その限りにおいては自由。

難しい事ではないと思います。
しかし、生成AIの現状はどうでしょう。

以下に挙げるのは問題の一部ですが、全て放置されています。
それぞれ関連する記事へのリンクを入れてありますが、
過激でネガティブな内容も含みますので、
そのような記事が苦手な方はクリックしないようご注意ください。

などなど…

これらリストを見れば分かりますが、
「道具は使い方」といったレベルに矮小化出来る話ではありません。
生成AIの問題は本質的には、
こういった悪意に繋がるアプローチが含まれたまま、
自主規制なくリリースされている事に起因しています。

SNSでは過激な生成ユーザーが目立ちますし、
それゆえに個人のモラルの問題が問われがちではありますが、
生成企業はそれを良い事に、
生成ユーザーのモラルの問題に、責任を転嫁し続けているのです。

「そんなことはない。
”訴訟費用は全額請け負う”と言っているではないか。」

と思う方もいるかもしれません。

確かに、それは一見責任ある態度に見えるかもしれません。
しかし、よく考えてみてください。
その訴訟の被告になるのは、生成サービス利用者です。

それは、その悪意を容易に出来るように社会実装しておきながら、
これほどの社会問題を「個別の事件」として、
「”悪意ある個人”の問題へと矮小化し、我関せずで終わらせる」
という行為にあたるのではないでしょうか。

「いやいや、これから安全性を上げるとも言っているでしょう。
まだ新しい技術なのだから、時間が必要ですよ。」

そう思われる方もいるかもしれません。

ではここで、自動運転の事例を考えてみましょう。

とても痛ましい事故です。
自動運転車が走り続ける事に対する、社会不安は増大したでしょう。
これを受けてCruise社は自動運転タクシーの運行を中止しただけでなく、
全車両のリコールを行いました。

つまり自主規制です。

また、この記事を書くのに手間取っている間に、
テスラの自動運転も大規模リコールとなりました。

どちらもリコールまでするのは、とんでもない巨額損失でしょう。

安全性が確信出来ないうちから、
社会実験のように公道を自動運転で走らせていたことは、
事故の被害者の苦しみを思えば擁護することなど出来はしませんが、
「問題が起きたら再度安全性が確保できると確信するまで、
問題が持続しないように運用を止める」

これが最低限、社会に対して責任ある企業の態度ではあるでしょう。

さてAIはAIでも、生成AIの企業はどうでしょうか?

まだ安全性に問題があると認識しているから、
社会に混乱を齎していることを認識しているから、改善を口にしています。

安全面の問題を、既に被害がいることを認識しているのに、
それを放置したまま次々に新しいサービスをリリースし続け、
話題性を維持するために市場を実験場とし、
被害者が生まれ続ける状態を持続させています。

生成ユーザー個人のモラルがどうのこうの以前に、
技術そのものが社会に対する責任を果たそうとしていない。
それが現在の生成AIを取り巻く現状です。
生成AI側と多くの人の倫理観がぶつかる、根本的な原因です。

「表現」と「生成」は文脈を分けよう

ここまで見てきたように「表現の自由」は、
それを守るために、時には規制と闘い、
時には自主規制によって規制を抑制し、
それぞれの文化を守り、発展させてきました。

話の流れを作る都合上、
最初に挙げてさらっと済ませてしまった漫画・アニメも、
創作者側が責任ある態度で信用を積み上げてきたからこそ、
現在の地位を獲得出来たとも言えると思います。

そこに、本質的に無責任な生成AI、
表現にリスペクトを持たない人間がそれを利用する形で、
それぞれの文化の文脈に土足で入ってきたら、どうでしょうか。

それぞれの分野が築いたルールで守ってきた「表現の自由」が、
大きく脅かされるのでは?と感じられるのではないでしょうか。

そして実際、表現規制の芽は、生まれ始めています。

生成AIが土足で入ってきたことで、
日本の法と創作プラットフォームが、
児童関連画像の抜け穴になってしまっている事への、
海外からの問題視。

また国内でも規制が必要だという意識が芽生え始めている事は、
以下の記事からも分かります。

一見、これは漫画・アニメの事例の話に似ています。
なので、その闘いを知っている人々が、
強い懸念を抱いてしまう気持ちは分かります。

しかし、記事のサムネ画像をよく見てください。
これは「AI由来の児童の性的画像」を規制するべきかどうか
というアンケートの結果です。

そして以前とは本質的に大きく違う点が、もう1つあります。
今、問題を起こしている生成物には、
現行法では著作権は認められていません。
同じ「表現」の土俵で考える必要はないのです。

そうです。
これから議論されるべき規制、ルールの話は、
「生成AIの時代に向けて、
コンテンツ保護とモラルと両立するためには、
どこまでの表現を規制するべきか」
ではありません。

既存表現を模倣した見た目をしているからと言って、
既存表現と同一視したまま、議論をする必要はないのです。

ルールに当てはまらず、現行法でも定義されていない物を、
ムリヤリ現行法で解釈し、受け入れようとする必要もありません。

「本質的に責任を果たさない”生成物”は、
各創作の文脈と相容れないのだから、純粋に別物と扱う」

必要なのは、まずはそういう事ではないでしょうか。
文脈の異なるものを、無理に同じ文脈で語る必要はないのです。

生成物は生成物として、
それに相応しい文脈を新たに築いて貰えば良いのであって、
各文化の努力の文脈までフリーライドさせて、
途中からただ乗りさせてあげる必要はないと思います。

生成AI諸問題の規制を議論する事は、
「表現の自由」を害する結果には繋がりません。
そして今、規制の議論を始めなければ、
生成物に均質化される品質によって、市場は文化的価値を喪失します。

このまま市場を開放し続ける事は、ただ海外企業に利益むしり取られ、
その「表現としての価値」を喪失し、
ただの工業製品を飾る物へと陳腐化する事に繋がるのです。

それは、オリンピックなどのスポーツを、
人間の代わりにロボットがやるようになるくらい、
味気のない世界ではないでしょうか。

ちゃんと人間と分けられている規制、ルールがあるならば、
ロボットオリンピックも面白そうとは思いますけれども。
でも空気抵抗の少ないフォルムで車輪駆動が早いって事で、
すぐにただの自動運転カーレースになる気はします。

囲碁や将棋の世界も、名人でもAIに勝てなくなりましたが、
AI利用者が名人を奪う世界になったら、何も面白くありません。
人間の文化として、きちんと規制しているから、
その闘いはまだまだ面白いし、今も続いているのでしょう。

ゲームに例えるなら、チートにも似ていますね。
チーターを規制・除外するから、勝っても負けてもゲームは面白い。
チートの規制がないと、楽しいと思えるのはチーターだけで、
他のユーザーは離れ、人が減るとチーターも飽き、
そのゲームは運営継続不可能になります。

だから表現・文化を守るために、
文脈を分けて考える事は、とても大切なことだと思います。

適切な「規制」は「表現の自由」を守る

以上見てきたように、自由には責任が求められます。
社会に影響を与えるレベルの企業なら、なおさらでしょう。

責任には、それに相応しいルール、規制が必要です。
それを外部から与えられたくないなら、自主規制が必要になります。

そして、過度にルールを破るものを弾く「規制」こそが、
ルールの中で切磋琢磨する技術や文化を守り、
世界に誇る日本の豊かな文化を発展させてきたのだあと思います。

いかがでしたでしょうか。
この記事が少しでも、皆さんの論点整理や、
思考の叩き台になれば嬉しい限りです。

過去の記事では、
生成AIのメリットとそのリスクの考察を書いてみていますので、
興味のある方は是非そちらも読んでみてください。

長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。

終わりに

この記事はあくまで提供企業を問題視する形で書いていますが、
記事を書いている間にも、
生成AIの利用を発表する企業が少しずつ増えてきました。

著作権に引っかからなければ。
自分たちがディープフェイクを作らなければ。
同じ技術が他でどんな使われ方をしていようと、自分たちは関係がない。
その技術を提供する企業に利益提供しても責任はない。
そう考えているのでしょうか。

問題部分に目を瞑り、利益だけ享受している時点で、
生成AIのディープフェイクなどによって生まれる「被害者」の人権に、
フリーライドしていることになってしまっている。

そのことに、早く気が付いて欲しいと願っています。

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