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コンパクトシティ化について

コンパクトシティ化は賛同できない。結局それは固有の文化を喪失させるものではないのか?

連綿と続いてきた土着本来の姿、本来の集落。
効率と安全性を求めれば、コンパクトシティは理に適っている。しかし、文化を考えれば、それは非常に危うい性質と空虚さを抱えている。


安全性をどこまで確保するべきか?という問題は非常に厄介である。安全であればあるほどそれは善であるという、安全至上主義は現代の世界を支配している。安全性はどこまで確保するべきか?という問い自体がタブーである非倫理的であると糾弾されるのだ。


安全性と文化というものは、往々にして対立するものではないか。安全性のみならず、利便性、効率性にも敷衍できる。文化というものは、不合理なものだからだ。
人々は安全であればあるほど、便利であればあるほど、社会は豊かに機能するようになると信じている。だがしかし、そこには大きな落とし穴がある。
都市の過密化、画一化、均質化が進み、その土地固有の文化というものは淘汰されていく傾向にある。利便性を重視したコンパクトで機能的な都市。なるほど、事故も最小化され、命が危険に晒される心配は軽減される。しかしその危険が取り除かれたという空虚な幸福感が文化を蝕んでいると言えよう。


文化と危険というものは、常に接着していることが多分にある。
危険が排除された安全で効率的な都市。しかしそれは、どの街も似たような風景へと画一化させてしまう。
安全なのだから画一化されても越したことはないじゃないか?という意見が聞こえてきそうだ。厄介なのが安全性を求めるというのは良心から発する切望であって、往々にして正当化され、社会でその行為が審議にかけられることがないということである。より安全な社会とシステムを望むのは、人間の宿命的な性であり、万人が共有する良心の為である。自分の命を落とすこともなければ大切な人の命も失うことがない。その安全という幸福をどうして阻害することができようか?という最もな反論である。


しかし、人間の幸福というものを考えるならば、文化というものがいかに人の生に対する幸福感と安心感を与えるかという事実を直視しなければならない。
勿論文化を守るが故に、安全性を軽視してはならないが、行き過ぎた安全化や効率化は、人々の暮らしと精神とを空虚にさせることを知っていなければならない。
安全性の確保はその時々の個人にのみ適用されるが、文化の喪失は全ての人間の生活に波及する。テクノロジーのレベルが向上しなくとも、一生大きな事故を起こさないかもしれない人間もいる。そのような人間も、この安全至上主義に巻き込まれ、強制的に文化を剥奪されるのだ。


人間の命と文化、これを天秤にかけた時、間違いなく現代社会は人命を取る。しかし、その傾向がさらに加速し、延長していけば、どの都市も一様な機能とシステムとによって画一化され、土着の独自性は間違いなく消失する。

完全な安全性と機能性を提供されていながら、そのような都市では一様に空虚で虚ろな目をした人々が街中を闊歩しているのを散見することになるだろう。死の危険のない平和が確保されたのに、文化の喪失によって生きることの虚無を抱えた人々が街中に溢れかえるであろう。

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