方言と私
地元を離れて15年以上たつ。標準語圏に住みはじめてから方言を使うことは少なくなってきているので、たまにテレビやラジオで地元のことばを聞くと、ほっとする。
今日もテレビに、地元が同じ方が出演していて、標準語で話してはいるのだけれど、素朴なイントネーションが耳に心地よくて、普段はあまり見ないテレビをじっくりみてしまった。
以前同じ地方に住む知人と「頭で考えているときは方言で、話すときに標準語に変換して話している」という話をしたことがあった。
意識して方言を標準語に変換しているわけではなくて、無意識に脳が変換してくれている。
しっかり(?)した方言は変換できないけれど、ことばの語尾や単語は変換しながら話していることが多い。
だからなのか、人よりも話す速度が遅い、気がする。
そうは言っても、うまれも育ちも標準語圏の人が聞くと、私の言葉にはまだ方言のイントネーションが残っているらしい。
それなら、方言を前面に出して話そうかな、と思ったこともあったけれど、耳から相手の標準語を聞くと、それに合わせて、無意識に標準語で話そうと脳が働くから、標準語圏では方言を話すことが難しくなっている。
そしてたまに地元に戻れば、すんなり地元の言葉に戻る。
不思議だ。
これを書きながら、書きことばで方言を書いてみたくなって、何を書こう、このことば?これは?と思って書こうとしてみたのに、書きことばだと余計にうまく書くことができなかった。
思考にも血液にも皮膚にも私の全部に方言がしみついているのに、いつの間にか、殻をかぶって暮らすことに慣れてしまったかも。
どっちが本当の私。ではなく、どっちも私なんだろう。
ただたまに、手のひらからつるが伸びるように、私のまわりが、あの田園風景でいっぱいになって、かえるの声や虫の声が聞こえてくるのは、幻聴ではなく、そのしみついた方言が見せてくれているものなのかもしれない。
帰るたびに変わらない風景がある、というのはありがたい。去年は帰省できなかったから、今年は帰省できるようになるといいな。
お休みの日にどうぞ。働いている日にもどうぞ。