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柿本人麻呂神社 ー氏神信仰のかたちー

当神社の境内末社の一つに、「柿本人麻呂神社」があります。歌道・学問に優れた歌人、柿本人麻呂をお祀りしており、毎年「人麻呂忌」にあたる4月18日には例祭を斎行しております。どなたでもご参列いただけますので、ぜひおいでください。


柿本人麻呂の足跡

柿本人麻呂は、『万葉集』第一の歌人ともいわれる三十六歌仙の一人。飛鳥時代に生きた伝説的な歌人です。

柿本人麻呂 拾遺集

「あしびきの」と聞けば、百人一首で遊んだ記憶がよみがえる方も多いのではないでしょうか。

しかしながら、人麻呂の出自ははっきりとしていません。石見国美濃部郡の戸田(現在の島根県益田市戸田町)に生まれ、西暦700年代の初めに石見国の国司として赴任したとされています。

川越の柿本人麻呂神社は、人麻呂の直系の子孫と伝える「綾部氏」一族の氏神です。

綾部氏が川越へ移住してきたことから、柿本人麻呂が川越氷川神社でお祀りされるようになりました。歌道・学問の神様だけでなく安産・火防の神様として古くから信仰を集めています。

遠い島根の地と川越、綾部氏との繋がりを、もう少し詳しく紐解いてみましょう。

綾部氏の歴史と人麻呂神社

もともと綾部氏は柿本氏を称していましたが、平安時代に丹波国何鹿郡綾部庄(現京都府綾部市)の下司(下級役人)となり、綾部氏を名乗るようになったとされます。

その後、綾部氏は東西に分かれて移り住み、一方は近江国をへて川越に、もう一方は石見国の戸田に転じたと言われます。

川越へは永正2年(1505)頃に移住しました。当時の川越は城主を扇谷上杉朝良とする関東有数の文化地でした。

麻織物を家業としていたことから、川越での屋号を麻屋と称し、「麻利」「麻友」「麻喜」「麻伊」「麻浅」「麻彦」など、のれんわけをしながら、塩・油・肥料を扱う川越の豪商に発展していきました。

明治40年頃の綾部家別荘(宮下町)にて撮影された10代目綾部利右衛門とその娘たち
綾部家の隆盛ぶりが伺える
(出典:川越むかし工房編『小江戸ものがたり 第4号』川越むかし工房、平成15年)

そんな綾部氏の宅地は、当神社から約500m離れた喜多町の、現在では写真館「COYA KAWAGOE」となっている場所にありました。

人麻呂社は、綾部氏の宅地からご遷座されたと伝わります。神社の古記録には元禄2年(1689)の神系図に末社の筆頭として記載されているため、この頃には境内でお祀りしていることがわかります。

八坂神社とのつながり


当初の社殿の様子はわかりませんが、現在の人麻呂神社は、元文4年(1739)に喜多町中で八坂神社として建立されたものです。境内へ移築したのちも何度か場所を変え、今に至ります。

八坂神社からの転用が伺えるものとして、人麻呂神社の軒唐破風(のきからはふ)の下、蟇股(かえるまた)に見えるきゅうりの図柄があげられます。

中央左にきゅうりが見える
「蟇股」:本来は屋根からかかる荷重を支える構造部材の一つ。平安後期以降は徐々に装飾材としての役割が重視されるようになった。

八坂社(祇園社)の御神紋は「五瓜(ごか)に唐花」。きゅうりの断面に似ていることから、きゅうりを神物として尊びます。

祭礼の中では、「夏負けしないように」との願いをこめ、神職や巫女と祭りの参加者らが初生りのきゅうりを交換する習わしもあります。

境内に息づく川越の文人文化

人麻呂神社の右脇には山上憶良の歌を刻んだ石碑があり、有名な「令反惑情歌」(まどえるこころをかえさしむるうた)が刻まれています。山上憶良もまた『万葉集』に和歌が載る、奈良時代を代表する歌人ですね。

これは、当社の19代宮司、山田衛居と懇意にしていた川越の文化人、中嶋与十郎らによる書で、明治時代に建碑されています。

4月18日の柿本人麻呂祭は午前11時から。綾部家をはじめ、万葉集の愛読者や研究者も多く参列し、献歌も行われます。川越の粋が詰まった祭祀ですので、ぜひ一度、足を運んでみてください。


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