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救われる人がいるのならオッケー、とは思えないこと

時々、自分でも驚くほど、強いこだわりを持ってしまうことがある。

誰かが発した言葉のほんの一部分に「ムッ」としてしまったり、巷で見つけた広告の一表現に悶々としてしまったりする。

その「ムッ」や悶々は、誰かやどこかにぶつけるものではないのだけど、
たぶん、私が大切なものを大切にするために、ないがしろにしちゃいけない部分だと思っている。
「これ、私はあんまり好きじゃないよ」ってことが、無意識レベルで発動されているのだと受け止めている。

それはこんな具合だ。

少し前に、乳幼児を育てるお母さんに宛てた応援歌が話題になった。

穏やかなメロディーに乗せて、
赤ちゃん目線でお母さんへのメッセージが語られる歌だった。
メッセージは、
「今朝はぐずってゴメンね」だったり、
「いつも困らせてゴメンね」だったり、
赤ちゃんがお母さんに、日頃の振る舞いを謝っているというもの。

これがどうも違和感があった。
気持ち悪さが湧き上がってきた。

近年、ワンオペ育児、産後うつなどといった言葉が取り沙汰されている。
出産による身体的ダメージを負った状態で子育てや家事といったオペレーションの負荷がかかりすぎることや、
それらを「母親だからやって当たり前」という呪いをかけられることにより、
心理的に追い詰められてしまう母親の存在が浮き彫りになった。
この心理状態は児童虐待や産後離婚などにも繋がることから、社会的に問題視されている。

そういった背景から、どうにかして「苦しんでいる母親の気持ちを軽くしたい」「子育てに前向きになってほしい」という想いが育まれ、
先に挙げたような応援歌めいたものが発表されるようになったのだろう。
その想いには賛同するし、この歌で実際に救われた人もいるのかも知れない。

だけど、誰かが救われているのだとしても、私は好きではない。

そもそも目の前の幼い我が子に謝ってもらうことで、子育てからくる疲労やストレスなんかが軽減して子どもへの愛おしさが増すお母さんがいるんだろうか。

赤ちゃんは不快感を伝える手段が「泣く」ということ以外にないんだし、
ぐずってくれるから、
必要な栄養をとらせたり眠らせたりオムツを替えたりできるんだし、
決して謝ることではないじゃない。

泣き止まなくて「困ったなぁ」、
疲れが溜まって「しんどいなぁ」、
とお母さんお父さんは感じるんだけど、
別に謝ってもらいたいわけじゃない。と思う。

まぁでも繰り返しになるが、
謝ってもらってるという「設定」によって、
鬱々とした気持ちが晴れる人だっているのかもしれない。
私には分からないけど。

だけどもしそうだとしても、
私がどうしても引っかかるのは、
本人の気持ちはどうなるのよ!てこと。

「お腹すいた!」
「眠い!」
「なんか気持ち悪い!」
という命がけの訴え以外、やりたいことはないはずじゃないか。
(そりゃこれすら推測だけどさ。)

考えてもみて。
もしケアの対象が「泣く」以外に感情を伝える手段がある人(身体に不自由がある人や高齢者)だった場合、決してこんな歌は作られないはずだ。
ケアされている当人が、ケアしてくれる相手に対して、感謝の気持ちを伝えるために作った場合は別だけど。

ケアされる人とケアする人との関係性やお互いの感情を勝手に想像して、
安易に「ありがとう」やましてや「いつもごめんね」とアテレコすることは、
「失礼」で「傲慢」だと判っているからだ。

それが、ケアの対象が乳幼児になるとどうだ。

大人が勝手に感情を決めつけて、
「ごめんね」と言わせてみる。
まだ言葉で伝えられないからといって。

何だか子どもの感情を軽んじてるように感じて、どうにも違和感があるんだ。

日常生活のなかで、赤ちゃんの動作にアテレコしながら戯れるのは全然気にならないんだけど、
親を癒すために「謝らせる」ってことがやっぱり嫌だ。

泣いてることが悪いことみたいじゃないか。
寝ないことが酷いことみたいじゃないか。

泣いたり寝なかったりすることを「謝る」赤ちゃんが「良い赤ちゃん」みたいじゃないか。

何より最悪なのは、赤ちゃんが自分の意思で、「良い赤ちゃん」たろうとしているみたいじゃないか。

そんなの大人の押し付けだい。

#子育て #母親 #他者理解 #嫌いなもの

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