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緊張の緩和理論

赤ちゃんがいないいないばあをされた時、
「そこにおるんやろ?顔見えんけどおるんやろ?おるよな??」
と注目したあと、「ばあ!」と現れた顔をみて、
「ほら!やっぱり!!ちょーウケる。」
と感じている、と、教育学部時代にどこかで習いました。

僕は桂枝雀という落語家さんが好きで。
といっても、存命の頃はNHKドラマでチラッと見たことがある程度、落語が好きになってからも製作者キラーの(たぶん)無断アップロード動画から受けた影響が大半なので、早いこと有料の落語サブスクが欲しい今日この頃。
 
彼のお師匠さん、人間国宝の桂米朝さんは、大阪の落語(江戸落語に対して上方落語)を再興させた人で、伝統通り、型通りのキッチリした古典落語を演じた人。
 
 
師匠と弟子は、凸凹の関係、師匠が攻め将棋ならその相手をした弟子は守りの将棋になるそうです。
 
例にもれず、枝雀の落語は一見「破天荒」
 
創作落語はもちろん、SR(ショート落語)、英語落語など型破りな落語もさることながら、
伝統的、形式的とされる古典落語さえもその時々で大きく改変してしまう。
 
落語家さんは座布団に座ってさまざまな役を仕草と口調だけで演じ分けますが、
枝雀の落語は時として舞台いっぱいを使うほど。
 
旧来の落語ファンの中には彼をよく思わない人が少なくなかった反面、それまで落語に縁のなかった人たちまで、エンターテイメントとしての落語の裾屋を広げました。
 

どこまでも落語にストイックだった彼は、そのはちゃめちゃな(ように見える)芸とは裏腹に、理詰めで笑いを研究した人でもあります。
 

彼は、
「すべての笑いは緊張の緩和によっておこる。」
と、述べています。
 
緊張とは、心が張り詰めた状態、異常時。

緩和とは、リラックスした状態、平常時。

と理解して貰えばOKです。

この張り詰めた状態とリラックスした状態が切り替わる時に、人は笑うのだということです。
 

固まった筋肉をほぐすのに、一度ギュッと力をわざと入れた方が、力を抜いた時によりほぐれやすいですよね。


ありとあらゆる緊張がなくなり、100%完全にリラックスしている、いわば仏のような状態では笑いは発生しない。

また、何かを成し遂げた時、そこにいたるまでの緊張がほどけ(緩和され)、「やったぞ!」「ヨシ!」と笑顔になる。

そういった大きなスパンの笑いは比較的イメージがわくと思います。
 
心配なことがあって、それが解決した時に顔がほころぶのも同じです。

これを日々の小さな「クスッ」という笑いまで落としていくと、
ベースとして緩和した状態があることが前提なことがわかります。
 
真剣な場面、究極は人の生き死にに関わるような場面では、「笑っている場合じゃない」となる。
「笑っている場合」であるためには、ベースが緩和していること。
その余裕がある状態で、そこにちょっとした緊張が入り、解けることで笑いのスイッチが入る。このバランスが大切なのだと説いています。


例えば綺麗な身なりで格好をつけて澄ました人が歩いていてちょっとつまずくと、「クスっ」とした笑いが起こる。
この「ちょっとつまずく」が、緊張となりますが、すぐに緩和されて元に戻る時に笑いが起きる。
逆でもいいでしょう。澄ました人を見て、「なんだコイツは‥」と、異常時モードに入ったところでつまずくと「コイツも転ぶんかい!」と平常時モードに戻ると考えてもいい訳です。

もしこれがヨボヨボのお年寄りだと、心配になって緊張が勝ちすぎて「笑っている場合じゃない」になる。

どちらが緊張でどちらが緩和であるにしても、ベースには安定した緩和状態があって、そこにバランスの取れた緊張の緩和が起こることが笑いには必須だということです。

 


数年前まで大晦日は紅白歌合戦に次いで視聴率を誇った「笑ってはいけない」も同じ仕組みです。

「笑うと罰を受けるから笑いたくない、けれども、そこまで重篤な罰ではない。」というゆるい緊張状態を作ることで、普段なら笑わないような些細なことでも、その緊張が緩和されることにより笑ってしまう。
視聴者も、笑いの仕掛けそのものによる緊張の緩和だけでなく、
「これは芸人がエンターテイメントとしてやっているんだ。」という緩和のもとに「笑ってはいけない」という出演者の緊張を共有することで、その様子に「やっぱり笑った!!」という笑いも加わる、いわば二重構造の笑いがある訳です。

あの番組が賛否分かれたのは、この「わざとのゆるい緊張」の匙加減が時代や個々の取り方によって大きく異なっているということを浮き彫りにしたんだろうなと思います。


「大物俳優がこんなことするわけない」という前提は平常時。常識モード。

そこに、とんでもない変顔をしたり、品のない言動をしてみたりすると、異常時モード、非常識モードに切り替わる。

ここのレベルの笑いについては多くの人が共有できたでしょうが、
その度合いが行きすぎだと感じる人が少なからずいることに加え、もう一つのレベルである、
「お尻をバットでしばかれる」
という緊張の条件が、時代や世の中の流れとともに「笑ってる場合ではない」程度に緊張が勝ちすぎると感じる人が増えてきたことが、あの番組の終焉につながったんだろうと思います。


この理論に当てはめていくと、生活の中での緊張の緩和にも目が向かいますり

さまざまなことが順風満帆である時は、ベースがゆるゆるに緩和している状態ですから、笑う回数も増えます。些細なことで十分に緊張が与えられて、箸が転がる、程度の緊張で も笑う。「箸が転けても笑う」わけです。
 

逆にストレスが多すぎる時には、ベースの緩和が緩和しきれていないため、余裕がなくなる。結果として、笑いのスイッチになる緊張があっても緩和しきらずに、笑う回数も減ります。

笑うことがストレスの解消になる、というのはそのまま文字通り、ストレスという緊張を笑いによって緩和することで、ベースの緩和を、よりゆるゆるの緩和にしている訳です。

さてさて。

4月の新生活は特に、この「緊張」と「緩和」とのバランスが大きく崩れることが多い時期じゃないかな、と、思います。

頑張るぞ、と、張り切るあまり、知らず知らずのうちに、ベースの緩和が緩まりきらなくなってしまった結果、笑う回数が減ってないかなと確認してみてもいいかもしれません。

十分に緩和しておいて、「よし、これを頑張るぞ」とピンポイントですれば、それがアクセントになって笑うキッカケになる。

頑張ることがいい、悪い、ではなくてね、
ベースが十分に緩和していることが大前提ということ。

4月、新生活は何よりもまず、「ベースを十分に緩和させること」つまり環境を整えていくことだと思います。

その上で、ちょこっとした緊張が1日、1週間、1ヶ月の中にぽつぽつぽつと入って、いい塩梅で笑って1年間が過ごせますように。

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