見出し画像

源氏物語を読みたい80代母のために 32

 前回から随分間があいてしまいましたが、皆さま如何お過ごしでしょうか。ウチの母はお蔭様で、仕事にひ孫ちゃんのお世話にと相変わらずパワフルに活動しております。それにしても日本全国溶けてしまいそうな暑さ、母の作る団扇画像でせめてもの涼感を(パタパタ)。
 さて、源氏物語アカデミー第34回の告知&募集もとっくに始まっている今、前回の特別インタビュー動画残り二つをやっと観まして(激遅)簡単にまとめてみました。読むの面倒、動画観ればいいわ!な方はさっくり流してくださいまし。

「第33回源氏物語アカデミー特別インタビュー 東京大学大学院教授 高木和子氏」(越前市公式YouTube)

 朧谷先生に呼ばれてアカデミーに参加されたという高田先生、
〇越前市の印象
お菓子美味しい、和紙や魚など地元の特産物良い 
〇紫式部の越前滞在について
・父の赴任に娘が同伴した形(二十代前半~中:当時は貴族の娘でも生年月日や本名の記録はない)中流貴族の子女が親族と共に地方に出奔、は珍しくはない
・理由は宣孝の求婚をかわすため?京に他に思い人がいた?等諸説あるがはっきりしたことはわからない
・源氏物語に越前そのものを舞台にしたエピソードは出てこないが、地方の描写は多い(山や海の風景、地元民の暮らし等)
・紫式部は漢文(中国の歴史書や詩文)の素養があり、帝にも褒められ中宮彰子の家庭教師をもつとめた。当時の女性でこの役を出来る人はそうそういない。源氏物語にもそこかしこに漢文の知識がちりばめられている。父親の学問の影響はかなりあるとみられる
〇なぜ源氏物語がここまで愛されるか
・主人公の光源氏が大変な美男子のスーパーアイドルで、多くの人を魅了しただけでなく、「恋」によって帝の地位に肉薄する(藤壺との密通、子は帝に)点において権力者たちの願望にもマッチ、自己投影されたのではないか
・完全無欠とみえる光源氏の、人間としての姿への共感
〇大河ドラマについて
 嬉しい!大河において女性が主人公というのもあまりない
(合戦や男同士の権力争いが多かった?)
→実は紫式部の周りもそう!平安時代はむしろドロドロ政治闘争の時代であり、男女の恋云々は比喩である。
〇源氏物語について
 紫式部が個人としてどういう人生経験をしたか、ではなく歴史・文化・当時の政治や闘争などがベースで、既存の様々な物語も取り入れて書いていった、と考えられる。時とともに消えていった多くの物語が少数の優れた作品に吸収され、残ったという形
〇越前市の源氏物語ファンに向けて
 京都からサンダーバードに乗り、琵琶湖の横を通ると、紫式部もかつてこの風景をみたのかなと胸にくる。
 ひとつの町がただ一人の作家の思いに応えてくださるのは稀有なことで、源氏物語がなければ私たちもここに来ることはなかったかもしれない。越前市には美味しいお魚、和紙など素晴らしいものがたくさんあり、それらすべてが昔から地続きでここにある、という気持ち。

「第33回源氏物語アカデミー特別インタビュー 京都先端科学大学教授 山本淳子氏」(越前市公式YouTube)

〇源氏物語を研究しようとしたきっかけ:
紫式部の漢文の能力を父に「男ならよかった」と嘆かれた、というエピソード。
〇越前市との関係:
1996年越前市にて紫式部下向千年のイベント・国司行列の再現があり、当時大学院生だった山本氏が申し込んだが、装束のサイズが合わず参加できなかった(おつきの女房や女童役)。
このイベントは朧谷先生の監修で、学問的な裏付けをしたうえで国司行列が国境を超えるさまを再現したものであり、凄い!と思った。
アカデミーでの最初の講義時、蕎麦の花が満開でとても綺麗だった。日野山の標高(795m)が源氏物語に登場する和歌と同数!と教えてもらったことも印象深い。
〇なぜ紫式部が越前市に?
・二十代半ば、母親が早くに亡くなり姉も早世。父の世話をする女性が紫式部しかいなかった。
・和歌によると旅の間はそれなりにワクワクしていたようだ。京都では初雪の時期はこのくらいと暦にあったが、越前は豪雪の地。違いを実感しただろう。
・六月ごろ下向し一年余り、京都の色彩的な雪景色と違い真っ白に埋もれる越前では気が塞いだかもしれない(気象性うつ?)
・ただ越前を嫌いかのように書くのはあくまで演出であって、本当に嫌いだったわけではなさそう。
・「名に高き越の白山ゆきなれて伊吹の岳をなにとこそ見ね」の和歌にみえる「越の白山」は都人にとっては古歌の題材としてお馴染みの、憧れの地でもあった。それを私は実際に観た!という新たな自信となったのではないか。越前滞在は、彼女の人生の中で一番幸せな時期だったのかもしれない。
〇大河について:
これまでは戦いなどアクション多めだったが、ワクワクするのは血を流す戦いに限らない。文化の力の戦い、陰謀、呪い等また違った戦いがみられるのではないか。
〇越前市の皆さまへ:
源氏物語は漫画や現代語訳もたくさんある、大河の予習に是非少しでも触れていただきたい、楽しんでください。
<動画まとめ 以上>

 えーと、朧谷先生の動画の後すぐにこの二つを観ればよかったじゃんという気持ちです(すみませんすみません)。全体としてみればどの先生も、すっかり越前市(特に食べ物)の虜になられているご様子。是非ぜひこれからも越前市をよろしくお頼み申し上げます♡(調子よすぎ)

 さて。
 ここからは、先生方のお話を聞いた上での個人的な仮説。というより、丸っきりの妄想炸裂です。
 元福井県民としましては、
紫式部が案外越前国を気に入ってたんじゃないか説
 にガッツリ乗っかることにします。
 そうですよね、本当に嫌だったら越前での生活が落ち着き次第、冬になる前には帰京しましたよね。越前の雪が深いことは事前知識としてあったでしょうから。
 そこをあえて残ったのはひとえに、
 物書きの習性たる「話のネタになりそう」
 という気持ちからではないかと推測します。噂の大雪を一度は経験してみたい!と。
 その観点からいくと、「31」で述べたような味真野への聖地巡礼のみならず、滞在期間の殆どを(雪の季節を除き)観光(主に寺社参り)に費やした……という仮定は成り立たないでしょうか?
 国司の大事な務めとして「赴任地での神拝」がある。当時の越前は全国でも神社が多い土地。朝廷から奉幣・祈願がなされる「名神大社」の気比神宮や大虫神社をはじめとした実に126座、女性の身ゆえすべてとはいかなくとも、可能な限り父について訪れた……と考えるのは荒唐無稽にすぎる?
 だって、二度とないチャンスですよ?
 京にいたら絶対に観ることはない建物、仏像、万葉集の和歌でしか知らない場所、風景を自分の目で見ることができる!
 しかも、京ではしがない中流貴族の娘というだけの紫式部が、ここでは「大国・越前国国司の姫」。どこにいくにもおつきの家来がついただろうし、行った先でももてなされたんじゃなかろうか。
 遠隔地ゆえに何かと煩い日常の人間関係もない。知り合いと偶然行き会うことなど万に一つもあり得ない。これはもう、お出かけするしかないじゃありませんか?

 紫式部が越前滞在時を詠んだ歌は僅か、手記等は見つかっていない。紫式部日記は宮仕え以降の記録。越前国自体も、何度も戦乱で焼けた土地なので建物はおろか文書もない。よって当時の様相は今のところ、誰にもわからない。国府の位置さえ未だ不明なのだ。論文として書くには材料が無さすぎる。
 ならば妄想の限りを尽くして創作するっきゃないじゃないですかー!
 というわけでまだ続きます。

「文字として何かを残していくこと」の意味を考えつつ日々書いています。