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文章を書くことが、自分にとってどんなものか初心に帰った

 note始めてから、文章について考えたり思索したりする機会がそれまでより圧倒的に増えた。それまで「迷惑だろう」「遠慮しなくちゃ」などと抑えていたので、ここでは文章を書いたり思考したりするのを受け入れられて、かなりラクで楽しい場所のはずだった。

 いつからこんなに雑念が混じってきたのだろう。

 元々、何となく始め、場違いではと戸惑いやら、馴染めない気持ち、勝手な疎外感、居心地の悪さ、恥ずかしさ、なんなら申し訳なさや罪悪感まで持ちながら、少しずつ積み重ねてきた。

 周りに励ましてもらいながら、やめてしまいたい気持ちを奮い立たせて頑張った。そんなに頑張らなくてもとも思うのだけど、書きたい気持ちは止まらなくて、書いたからには読んでもらいたくなって、なんとか続けていた。

 でも志もなく、目標もなく、ただ書きたいだけ、めぐらせた思考を発表したいだけの私は、そんな程度だから、上手な人の文章を読んで感心しては、自分にダメ出しをして卑屈になってしまった。

 上手だな、思考が深いなあと思う文章を読み、ああそうかもう一歩、二歩、深く考えたら「内容が良い」と認めてもらえるのか。この人は気負いもなく楽しく書くんだな。面白くて笑える内容も深みがあるなあ。そういった気持ちになると、良かったよと伝えたい思いが強い。もう既にあるかもしれない自信を、もっと強く持ってもらいたい。応援したい。
 だから喜んでもらえると、「その調子!」と嬉しくなる。
 これは本当に心からの思い。

 そして同時に、「私は何のために書いているんだろう」がふと沸き起こる。あまり考えないようにして、「書きたいから、自分の気持ちを大事に」と、皆さんを励ましている文章を書きつつ自分のことも励ましてきた。

 そうやって何とか誤魔化しながら行きつ戻りつ続けていたら、数週間前、ドンと落ち込む瞬間がやってきてしまった。

 誰に話せば良いのかわからなくなっていたところに、一人、絶対私の味方でいてくれる、と自信があったからこそ、意見を乞いたい友人に気持ちを打ち明けた。

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 彼女との出会いについても少し書きましょう。

 夫の大学生時代の後輩。彼女のダンナさんも夫の後輩。夫はそのダンナさんの方と学生時代からとても話が合い、今でも出張先が彼の自宅から来れる範囲で、お互いの都合がつけば一緒に食事して飲んで帰ってくる。奥さんとなった彼女のことも気にかけていて、二人が結婚した時は本当に喜んでいた。ニュージャージーに住んでいた時に、ダンナさんの方が遊びに来てくれて、ウチに泊まってもらったことがあったため、私もその時に話し、とても印象が良かった。私たちが札幌に移ってから、二人は結婚し、二次会の時だったか彼女と少し声を交わした。

 その後、夫を通じて二人の話は時々聞いていたのだけど、特に交流はなかった。

 でも数年前に、私が体調不良から一時ゲーム「ゼルダの伝説」に助けられ、ハマった時期があって(今も時々、身体が疲れた時、気持ちが疲れた時に遊ぶ)。そのダンナさんもゼルダで遊んでいて。私は息子以外の人とゼルダの話がしたくて、夫を通じて4人でゼルダの話をメールで交わすようになる。そしていつしか奥さんと直接メールを交わすように。

 彼女は、私の周りにいない理系タイプ。私は異性に関しても夫と出会うまでは、文系の人と合うと思っていたのだが、夫と出会って「理系の人の話の仕方、思考の仕方はすごく面白い!」と気づく。しかも夫はサブカルチャーに広く深く好奇心が強いため、色々な話が楽しくて。類は友を呼んでいるのか、夫の周りの友人にはそんな人も多くて、ああ私には偏見があったんだと思い知らされる。ただ話の組み立て方、頭の中でおそらく行われている整理の仕方は、やっぱり文系の人と違う理系の人の特徴があって、それをとても面白いと思う。

 その彼女が、私の文章を表に出したら、と提案してくれた。私のゲーム日記が可笑しくて楽しいと。メールがどんなに長くなっても、彼女はあっという間に読んで「面白かった」と返事をくれる。たった一人の心強いファンのおかげで、私は文章を表沙汰にしようと思い、夫が面白そうだよと教えてくれたnoteという場所で書き始めた。
 その後、何度も「私の文章なんか」と卑屈になっては、彼女に励まされてきた。
 
 大人になってから心を許し、本音を話せる友人ができるとは思っていなかった。学生時代からの親しい友人、母親になってからできた友人もとても親しい人、はいるけれど、私の文章は背負いきれない感じで、いつも申し訳なく思っていた。母親になってからできた友人に関しては、もう年齢的にギリギリなんじゃないかと思っていた。この歳を超えると、そうそう心の内まで話せる友人はできるもんじゃないだろうと。
 彼女はそれを軽々と乗り越えてしまい、とても客観的に私の文章を受け止めている。
 私にとってちょっと珍しくて面白い存在。私が彼女のことをどれだけ知っているのかと聞かれたら、多分彼女が私のことを知っているよりずいぶん少ないと思う。ただ彼女の映画や音楽の好みを通し、彼女の感性のようなものを理解しているつもりだ。
 そして今回、「皆のことが気に入って、楽しんでいるはずなのに、何だかわからない疲れに振り回されている(そこはHSP=Highly Sensitive Personのせいだと思われる)」「文章に関して卑屈になってしまって、書きたいことは山のようにあるけど、私の文を書いて載せたところで、と思ってしまう」と気持ちを聞いてもらった。
 
 そこで、彼女の言葉の数々にハッとさせられた。

 中でも
「書くことを創作活動の場と捉えているのか、
コミュニティの場と捉えているのか」

 これに心揺さぶられた。

 ああ私に足りないところだ。グラグラだ。

 自分が「創り、表現する」基本を忘れていた。人に対して発表するのを意識するのは大事だろう。書いたものが受け入れられないかもしれないとか、スキの数がとか、気になるのも当たり前かもしれない。でもそれよりも、私にとっての「書く」をもっと楽しみたい、その気持ちを大事にしたい。

 どちらかと決めてかからなくて良いかもしれない。でもこんなに揺れて不安になる私のようなタイプは、気持ちを立て直すためにも、しっかりと軸を決めた方が良い。

 「書きたいことがあったら周りの反応を気にせずどんどん書けばいい」

 そんな風に書いてくれた彼女の気持ちに深く納得させられ、人がどう思うかは読み手の問題だと改めて実感し、もっと読み手にまかせなくちゃ、自分の書く目的を見失うと気が付いた。

 私は、「思考しながら書く」のが好き。あまり深く行きつかなくたって、内省してそれを自分の中で咀嚼し、スッキリさせて表現するのが好き。

 コミュニティはコメントのやり取りで少しずつ信頼関係を築いていけば良い。例えちょっと誤解があったとしても、長く付き合っていけたら、きっと分かり合える。ありがたいことに、分かり合いたい人たちがこのnoteで何人もできた。

 ツイッターでつながっていたとしたら、書ききれない思いはもちろん書いて関わっていって良いけれど、「つながらなければ」「みんな元気かな」「大丈夫かな」と心配して回る必要はない。私は何も皆さんとつながっていなくたって、皆さんは皆さんのコミュニティがあって、それぞれ確立していっているのに。私はいったい何様のつもりだったのだろう。

 彼女は、私の文章のファンであると改めて伝えてくれたと同時に、私に謙虚な気持ちを思い出させてくれた。

 ここで何をしたいのか。私は明確にして、自分と向き合いながら様々な文章を書いて出していきたい。また楽しく。時には大真面目に。時には面白おかしく!
 皆さんへの応援の思いも胸に。

 
#エッセイ #note #文章を書く  


読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。