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最適解を選ばず、しかし真っ直ぐな「作中人物」という存在

 作中の人物はまっすぐである。でも、目の前の問題をすぐに解決できるわけではない。そしてしようとするわけでもない。
 現実の人間はまっすぐ出ない人もいる。そしてもちろん、目の前の問題をすぐに解決できるわけではないだろう。

 作中人物と人間の違いは、まっすぐであるかどうかだ。彼らは実直で、ブレず、芯があって、そして潔い。性格や言動のことではない。作中人物とはそういう存在なのだ。そうだと定義づけられ、運命づけられている。彼らの中でもし、まっすぐでない存在がいるとすれば、それは別の作中人物になってしまった、と見られることになる。
 それくらい、作中の人物とまっすぐさは、当然の関係にある。私達はそう思っている。彼らはまっすぐだと。だからそうでないと、途端にそれをキャラブレだと感じる。
 キャラブレは許されない。何があっても。

 作中の人物はなぜまっすぐなのか。そしてそれなのに、彼らはまっすぐに問題を解決せず、それどころか(現実と同じように)逃げ出したり、避けたり、楽をしようとして許されるのだろうか。
 普通、まっすぐな存在ならば、それに相応しい行動をするべきである。動きを見せるべきである。でも、まっすぐな作中人物達は、むしろ、まっすぐには行動しない。
 その方が面白いからだろうか。それともハラハラするからだろうか。
 たとえば殺人事件の被害者が、真犯人を見つけ出したくて、警察に行くことは最適解だろうか? それとも事件の関係者に当たるのがそうだろうか。どちらも正解かもしれない。でも、その作中人物が、自分が疑う別の人物にまっさきに向かっていって自首しろと迫る、そんなことも彼らには許されている。

 到底、それは間違いだろうと思われることも、作中人物ならばしていい。ただし、1つだけ彼らは守らなければならないものがある。それが「まっすぐさ」だ。まっすぐな心。信念。譲れない想い。なんでもいい。そういう類のものがなければ、というよりも、それがあることこそが、彼らを作中という創作の空間に留める唯一の鎖なのである。
 作中人物はまっすぐさを失ってはならない。でも、最適解は選ばなくていい。最善を尽くさなくていい。

 そういう自身の心に素直な、まっすぐな感情のかたまりこそ、作中に登場する人物として相応しい。

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