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反魂香

夜、23時を少し回った頃。
年度末恒例のサービス残業を終え、終電に飛び乗った帰り道。
深夜を迎えようとする街並みはどこかひっそりと息を潜めていて、どことなく物寂しい。
もう3月も終わりだというのに、昼間に雨が降ったからか、やけに冷え込んでいた。吐く息が白く凍る。
改札を抜けて帰途を急ぎながら、ふと兄のことを思い出した。

我が兄は、ヘビースモーカーであった。
兄の部屋も、車も、服も、煙草の独特な匂いに包まれていて、だから兄との思い出はほとんど、紫煙に包まれている。
兄が煙草を吸い始めたのは、彼が十八の時だった。未成年喫煙である。
別にそれがなんだという話ではない。そうだった、という事実だ。

兄は不良ではなかった。いや、未成年喫煙を行なっている時点で不良ではあるのだが、固定観念的イメージの“不良”ではなかった。成績は優秀だったし、学校は無遅刻無欠席だった。だが、彼なりにストレスを抱えることも多かったのだろう。もうすぐ高校を卒業するという段になって、煙草に手を出した。

母は兄が煙草を吸っていると敏感に察して、彼に詰め寄った。母は煙草が嫌いだった。ずっと昔に家を出て行った父を思い出すのだろう。兄は母に謝罪し、それでも煙草はやめなかった。

一度、高校の頃、兄に煙草を強請ったことがある。とうに社会人になっていた兄の家に転がり込んで、一晩語らいあったあの日。兄の部屋はどこか煙草の匂いが染み付いていて、青色の消臭力が存在を主張していた。兄の匂いだと思った。それを兄に伝えると、兄は微かに苦笑を浮かべた。生温い夜。なんだかどこか心が寂しくて、兄に煙草を強請った。兄はちょっと眉を寄せて、それからいつもの穏やかな声音で「ダメだよ」と言った。
「兄ちゃんだって、吸ってたじゃんか」
「そうだよ、でも、ダメ」
兄の目が暗く翳った気がした。それ以来、僕は一切、兄の前で煙草の話題を出さなくなった。兄も、僕の前では一切煙草の匂いをさせなかった。

愛されていたのだ、と思う。優秀な兄に憧れと劣等感を抱く僕の幼い心を的確に察知して、間違った方向へ追って行かないように。

二十歳になって暫くしてから、兄が唐突に「吸ってみるか?」と聞いてきた。秋だった。僕が断ると、兄は少しほっとした顔で「そうか」と言った。星が出ていた。二人で空を仰ぎながら、星を数えた。兄が呟いた。「今度、引っ越すことになったよ」遠くへ異動することになったらしかった。僕は黙って頷いた。「寂しくなるな」と兄が言った。寂しくなるね、と僕も思った。兄と別れた後、母にそのことを伝えたけれど、反応は薄かった。兄が煙草を吸い出してから、母はどこか兄に余所余所しかった。遠くへの異動を了承したのも、この母との関係があるのかもしれなかった。

兄が遠くへ旅立ってからしばらく経ち、僕は兄が行けなかった大学を卒業した。そして、それを境に、月に一度は来ていた兄からの手紙がパッタリと途絶えた。元々こまめに連絡を取り合うような間柄ではないが、こうも連絡が来ないと不安だと、初めての有休で兄の新居へと向かった。ローカル線に乗って、ガタゴトと揺られながら、兄を想った。よくよく考えてみれば、僕は兄の仕事について、何も知らなかった。それだけでない、兄の好きな食べ物も、趣味も、よく知らないものだらけだった。乗り継いで、乗り継いで、乗り継いで、終点。鼓動がやけに耳に響いた。

兄の家は、寂れた古民家だった。人の気配はない。どこか置き去られて寂しげな一軒家。嫌な予感がした。古ぼけたチャイムを押した。軽過ぎるほどの音が鳴って、静寂。もう一度押した。ペンポーン、静寂。扉についたポストから中を覗いた。暗闇。兄はどこかに消えてしまっていた。近所の人に行方を聞いてまわった。誰も彼も、知らないとしか答えなかった。途方に暮れて空を見上げた。星が輝いている。吐いた息が紫煙のように宙に舞って、涙がこぼれ落ちた。心のど真ん中に、ぽっかりと穴が開いてしまったような気がした。

あれから、20年。兄の訃報は未だ届かない。兄に関する話題は周囲から消え去り、もはや僕以外には誰も、存在を覚えてすらいないようだった。母は3年前に死んだ。元気なうちにポックリいきたいわ、と言っていた通りの死に様だった。別れた父は健在で、母の葬式にそっと控えめに、小さな花を置いて行った。特に言葉は交わさなかった。兄は、母の葬式にも来なかった。僕が兄の訃報を聞かぬように、兄の元にも母の訃報が届いていないのかも知れなかった。母が死に際、「向こうであいつに会ったら逢いに行けって言っとくよ」と言っていたが、まだ逢いに来てもらっていないので、きっとこちら側にまだ居るのだろう。どこかで逢えれば良い。どんな姿でも。そう願う。

白く凍る息を眺めながら、兄のことを思い出した。歩みが少し緩む。ふと懐かしい煙草の匂いが鼻腔をかすめた、気がした。

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