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第一子の「母子健康手帳」より

三十数年前、母(と私)に交付された母子健康手帳を実家で見つけた。
私は第一子。

ここでは、保護者や大人という言葉も使うが、「母」という言葉を多用することをご了承いただきたい。

その母子健康手帳の表紙には、やわらかなタッチの絵が描かれてある。
母が子を抱き、子へと笑顔を送っている場面だ。

母と思しき人物は、目を細め、歯を見せながら口角を上げ、子に向かい笑いかけているようだ。
「慈しみ」を感じる。

しかしながら私にとってその絵は、母ではなく、子が真っ直ぐ母を見据えているように思え、それが印象に強く残った。

「今、自分を抱いているこの人物は自分にとって安心できる大人(存在)なのか」

子の控えめに上げた口角、ぱっちりと開けた黒目がちな目。
この目は大人を見据えている目だと感じる。
私がこの目を自分に向けられたら、見抜かれているとも感じるかもしれない。

子は、

「信じたい、でも」

まだわからない。

生まれたばかりの子は、自分のことさえわからない。

名付けてほしい。
自分の名前を、そして、自分から生まれ出てくる感情に名前を。

保護者は子どもの名前の届出をしたあと、または生まれる前から、その子の名前を呼ぶだろう。

「〇〇(ちゃん)(くん)(さん)」(またはニックネーム)

泣き止まない子がいたとする。
保護者や保護者的な役割を果たす人から、「お腹が空いてるんだね」と言われて、ああ、これは「お腹が空いているのか」と不快感に名前がつけられる。
そして対処法を子は学んでいく。


おむつが濡れて「気持ち悪いね」。
離乳食を食べて「おいしいね」。
ハイハイができて「嬉しいね」。
転んで「痛かったね」。
少し大きくなれば、お友達と喧嘩して「悲しかったね」。

不快感や、快感、感情の名付けを身近な大人にしてもらうことで、
人間同士(少なくとも所属するコミュニティ内)の共通言語がある程度成り立ち、
人間関係での意思疎通が、生活に支障をきたさない範囲でできるようになると考えている。

感情に名前をもらうことでやっと、他者との気持ちの共有ができる。

それを繰り返して、ぼんやりとした不快感で泣いてばかりいずに済むようになっていくのだ。多分。

ただ、この表紙絵の子の右手の指は、母の衣服に触れている。
ぎゅっと掴んでいるようには見えない。
確かめるような、悪く言えば恐る恐るといった風にも見える。


話は逸れるが、私は手は触角であると感じている。そう感じる私自身は、虫に近いのかもしれない。


母子健康手帳の表紙に描かれた子どもは、目でも耳でもない部分で、母を感じているように見える。

これは私が感じるに、「この大人を信じたい」というこの表紙絵の子の表れのように見える。


保護者を含めた外界にいる他者を信じられるのか、信じられないのか、瀬戸際にいる。
それが「赤ちゃん」なのだと感じている。

言葉を使って自分の思いを伝えることができない月齢、または年齢。

抱いてもらうこと、触れて肌で感じることが、親と子、双方の安心につながると思っている。


触れることを拒絶されないことが、子どもにとって
「この大人を信じることができる」という安心感や確信につながるのではないかと、この表紙絵を見て思った。

かつて子どもだった身として思っていたことがある。
頭を撫でてほしい。
「大丈夫」と背中をさすってほしい。

触れてほしい。


「上手くできるお母さん」なんか求めてないから。
自分を見てほしい。

できれば、「何があっても味方だ」と言ってほしい。

お母さん、
お母さんに、私(子)のことで我慢させたくない。

「自分はお母さんが大好きなだけ」

上記では「お母さん」と記述したが、子どもが愛着を持つ多くの人(母親以外なら父親、祖父母、地域で親切にしてくれた人、恩師、挙げるとキリがない)に当てはまるだろうと思う。

それぞれの家庭の状況によって違うだろう。
保護者としての立場を誰が担うのか。
やむを得ず働きに出る大人しか家庭におらず、子どもにかまうことができないという状況もある。

そしてそれは、家庭の中だけでなんとかできる問題ではない。

大人の苦悩の皺寄せは、弱い立場、とりわけ子どもに行くと感じている。

大人が楽になることで、余裕が持てることで、子どもは嬉しく、満たされると感じている。
自分を見てもらえる時間が増えるからだと思う。

子どもができるようになったことも私は見たい。
過程も含めて。
また、
できなかったことも、「できなかったとわかった」とひとつの経験にしていく姿も見たい。

まずはしっかりと、私自身の基盤を作ります。

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