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昭和歌謡史概説③ テーマ史:日本の洋楽史

 第1編と第2編では通史を見てきましたが、それだけでは不十分な箇所があります。第3編では、それらを補うためのテーマ史、ここでは特に日本における洋楽の歴史を、ジャンルごとに確認していくことにしましょう。


【浅草オペラ】

 日本に西洋音楽文化をもたらしたもののひとつとして、「浅草オペラ」があります。これは、大正中期に作曲家・佐々紅華(さっさ・こうか)らが中心となって始めた興行で、榎本健一古川ロッパが活躍し、特にオペラ歌劇を日本に広めました。1923年の関東大震災や浅草六区の消滅により短命に終わってしまいましたが、さまざまなジャンルの洋楽が輸入されることになった先駆け的存在と言えるでしょう。

【ジャズ・ブルース】

 日本におけるジャズやブルースの歴史は非常に複雑で錯綜しているため、必要最低限な内容で解説していきたいと思います。
 昭和初期、ジャズは舶来音楽としてアメリカから輸入されてきました。輸入された背景には、アメリカのレコード・蓄音機会社(ビクターやコロムビアなど)が相次いで日本に進出してきたことが挙げられます。
 この時代にジャズを歌った歌手の多くは、浅草オペラの出身者でした。例を挙げると、二村定一天野喜久代といった歌手が有名です。
 その後は、作曲家の服部良一が純日本産のジャズを作り始め、淡谷のり子(シャンソンから入ったのち、ブルースの女王と呼ばれた歌手で、「別れのブルース」や「雨のブルース」などがある)やディック・ミネ(淡谷に見出された歌手で、「ダイナ」などがある)といった歌手が活躍しました。また、作曲家・中野忠晴によってコロムビア・リズム・ボーイズというコーラス・グループも誕生しますが、彼らは次第に日本の流行歌へと傾倒していきました。
 戦時下になると、ジャズやブルースを含む洋楽が敵性音楽の対象となり、流行は下火となりますが、その人気を完全に封印することはできていなかったようです。
 終戦後、ジャズは進駐軍の影響で息を吹き返すのです。
 特に戦後すぐには、ブルースから派生したとされる「ブギウギ」が流行しました。服部良一が作曲し1947年に発表された笠置シヅ子の「東京ブギウギ」は、明るい曲調と踊りで暗い復興期の時代に大流行し、ブームとなりました。
 また進駐軍キャンプでは、数々の日本人歌手がジャズを中心とした曲を歌い、人気を博しました。その中には、後のクレージー・キャッツフランク永井といった歌手もいました。
 しかし、段々と歌のない演奏のみのジャズの人気が出るようになり、他の洋楽や日本の流行歌の隆盛もあって、日本でのジャズ・ボーカルの人気は50年代後半にかけて落ちていきました。
 ただし日本の歌謡界に残した影響は大きく、後のムード歌謡のような流行歌ジャンルの発展にもジャズが寄与していると言われています。

【ラテン】

 ラテン音楽が日本にやって来たのは戦前、昭和初期のことです。舶来音楽として、ジャズとともにアメリカを経由してラテン音楽(特にタンゴ)は輸入されましたが、当時はそのような洋楽をひとくくりに「ジャズ・ソング」と呼んでいました。そのため南米由来の音楽という認識はあまりなく、大きな流行もしなかったようです。
 そしてラテン音楽が日本で流行するのは、やはり戦後のことでした。
 アメリカ(進駐軍)経由で日本へ本格的に輸入されてきたラテン音楽は、40年代末期〜50年代前半にかけて結成されたラテン・バンドによって広く知られることとなりました。以下はバンドの例です:
・見砂直照と東京キューバン・ボーイズ(1949-)
・有馬徹とノーチェ・クバーナ(1954-)
 彼らが日本に広めたラテン音楽のひとつに、マンボがあります。本場ではペレス・プラードによって広く知られることとなったマンボの日本での流行を決定づけたのは、52年に発表された美空ひばりの「お祭りマンボ」でしょう。
 また、タンゴも戦後に広く親しまれたラテン音楽のひとつです。これは51年にタンゴ歌手としてデビューした藤沢嵐子の影響が大きいと言えます。彼女はタンゴの本場アルゼンチンで成功を収め、その影響から日本においてもタンゴ・ブームが起こりました。
 40年代末期から50年代にかけて、上記のようにマンボやタンゴといったラテン音楽が大いに流行したわけですが、その影響を受けて和製ラテン音楽と呼ばれるものも誕生しました。ドドンパです。これは日本特有のリズムを刻むもので、主にアイ・ジョージらによってCMなどを通して広められました。彼は「第二の田端義夫」というキャッチコピーで登場しますが、坂本スミ子と共にトリオ・ロス・パンチョスの来日公演の際に前座として出演したのを機に、ラテン歌手へと転向しました。しかしこのドドンパも60年頃が頂点で、流行は長続きしませんでした。
 60年代半ばになると、続々と日本人ラテン・コーラス・グループが誕生し始めます。黒沢明とロス・プリモスロス・インディオスなどが有名な例ですが、どのグループも60年代後半には「ラブユー東京」や「コモエスタ赤坂」といった曲を発表し、ムード歌謡グループへと転向してしまいます。70年代にかけて流行することになるいわゆる「ムード・コーラス」は、ラテン音楽の影響を強く受けていると言えるでしょう。
 こうして、日本でのラテン音楽は衰退を始めますが、その後の歌謡界にラテン音楽は大きな形跡を残しました。例えば、ラテン音楽を演奏する際に用いられる楽器を曲中で使用したり、曲名や歌詞中にスペイン語を盛り込んだ歌が多数発表されたのでした。

【ハワイアン】

 日本のハワイアン音楽の歴史は戦前に灰田勝彦らがモアナ・グリー・クラブを結成したことに端を発しますが、やはりその歴史が大きく動き出すのは戦後のことです。戦争が終わるとすぐに、敵性音楽の制限が解除されたためハワイアンバンドが多数結成されていきました。まずは代表的なグループを挙げておきましょう。
・ポス宮崎とコニー・アイランダース(1945-)
・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ(1947-)
・大橋節夫とハニー・アイランダース(1948-)
・和田弘とマヒナスターズ(1954-)
 これらのグループの誕生とほぼ同じ時代の1947年、ハワイでハワイ松竹楽団のフランシス・ザナミが「別れの磯千鳥」という曲を発表します。この曲は52年に日本に輸入され、近江俊郎の歌でヒットしました。
 このヒットや進駐軍の影響を契機に、日本でもハワイアンに人気が出始めました。その人気はバッキ―白片の弟子であるエセル中田らによって60年頃に確立されたと言えるでしょう。
 和田弘は、もともとはバッキー白片の弟子でしたが、独立しマヒナスターズという日本初の流行歌コーラス・グループを作り、特にムード歌謡で成功を収めました。
 また、はじめはハワイアン歌手として60年代にデビューした日野てる子渚ゆう子も、次第に日本の歌謡曲歌手へと変わっていきました。
 このような出来事や他ジャンルの洋楽の台頭などが重なり、日本でのハワイアン人気はあまり長続きしなかったようです。

【ロカビリー】

 1954年、アメリカでエルヴィス・プレスリーがデビューすると、その人気は世界中に広まりました。彼の音楽はロカビリーと呼ばれ、日本にも輸入されるようになります。
 日本で初めてプレスリーの音楽をカバーしたのは56年、小坂一也であったと言われていますが、2年後、ロカビリー三人男が登場したことでその人気は急上昇します。
 58年、日本劇場で「日劇ウエスタンカーニバル」が開演します。これに出演していた平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下敬二郎の3人は、ロカビリーを中心にポール・アンカニール・セダカなど当時のヒット歌手の曲を次々とカバー、発売し絶大な人気を誇るようになります。そして「ロカビリー三人男」と呼ばれるようになり、日本での洋楽文化発展に大きな足跡を残しました。
 しかしこのロカビリーブームも60年代中ごろまでには消滅してしまいます。平尾は後に作曲家としても活動し、数々のヒット曲を残しました。

【シャンソン】

 (戦前からシャンソンは大きな存在でしたが、ここではその時代についてはあえて触れず、主に戦後のシャンソンについて書くことにします)

 フランスの音楽であるシャンソンも、1960年頃に日本でブームになりました。男性では本場パリで学んだ芦野宏が、女性では宝塚出身の越路吹雪が中心となり広まっていきました。しかしフランス語で歌唱された作品は少なく、岩谷時子らによる訳詞バージョンで親しまれました。
 越路吹雪と61年にデビューした岸洋子の2人は、ヒット曲を多数発表し、シャンソンの女王と呼ばれました。
 また、かつて銀座に存在した「銀巴里」という喫茶店も日本のシャンソン史には欠かせない存在です。この店の舞台からは丸山明宏金子由香里といった数々のシャンソン歌手が誕生することになりました。
 シャンソンは、70年代に入ってからもある程度は一部層からの根強い支持を保っていましたが、次第に日本の歌謡曲との人気の差は大きいものとなっていきました。

 このように、日本でもさまざまなジャンルの洋楽が輸入、カバーされてきましたが、そのほとんどが60年代中期をもってブームが過ぎ去っていることが分かります。
 しかし、70年代以降洋楽カバーが完全に日本の歌謡界から消滅したわけではなく、ヒットした曲も存在します。ただし、50〜60年代に起こったほどの流行はありませんでした。


最後まで読んでいただきありがとうございました。
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