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「父親力」はテキトーさとわがままこそ真価①幼少期

「母親になる」というのは、人生最大の難所。

命を懸けた出産に続いて、不眠不休の体当たり子育て、ホルモンバランスの崩壊によるさまざまな悩みに加えて、母親自身、これからどう働き、どう生きていくのかの問いを突き付けられる。

時に、なんて甘くなく、しょっちゅう行き詰まる子育ての中で、ふと、隣を見ると父親がいる。細切れ睡眠でもうろうとしている中、りっぱないびきを聴いて殺意を覚えた母親は少なくないだろう。

こんな母親に父親は応えられるのか?

違う。

父親力とは応えないことにある。放置することにある。テキトーさとわがまま。父親力の源泉と真価はこの2つ。

父親のテキトーさとわがままに振り回される子どもは楽しい

子どもがよちよち歩きの小さな頃、言葉も通じないちびっこ相手に、遊びで苦労した母親は多いはず。子どもがやりたがることは危なくて、ケガをしそうで、ストップかけてギャン泣きされるのはよくあること。

しかし、父親は違う。落としたらどうするの??という遊びの筆頭は高い高い。まだこの子に早いと避けていた公園のアスレチック、ブランコ。こんなちびっこには危ない、と母親が判断する遊びを、父親は颯爽とやらせてしまう。

父親のこの判断の甘さは、子どもにとってはチャレンジそのもの。人間の本質として「チャレンジを楽しむ」という習性は確実にインプットされている。このチャレンジこそが、オリンピック選手を生むのだと言っても過言ではない。

体の使い方を知った子どもは強い。どんなスポーツだってできる。

そのためには、母親がする「遊んであげる」ではない、父親の「一緒に遊ぶ(自分も楽しむ)」、さらに言えば「子どもを使って自分が遊ぶ」というのは大切だ。父親のテキトーさとわがままに振り回された子どもは強くなる

父親力最大の見せ場、「登園」

幼少期の父親が父親力を発揮する重大な場面がある。それは保育園の送り。

登園時にさめざめと、あるいはギャン泣きされて、自分も泣きながら仕事に向かったことのある母親はほぼ全員ではなかろうか。この役目を父親が担うとどうなるか。

登園準備も、父親のテキトーさで服の組み合わせなど考慮されず、サクサクと済む。時間に従ってすまされる朝食で子どもは園での昼食をしっかり食べるようになる。子どもの感情に飲まれない父親のわがままで、登園時の別れは短時間で済む。

そして何より、母親が朝から神経をすり減らさずに済むようになる。「子どもに泣かれて始める一日」という、なんともテンションが下がる朝から解放されて、はつらつと一日を始められる。我が家は、というか、私はこれにどれだけ助けられたことか。


おとなの勝手さは子どもの安心感を育てる

小学校に入ったら、父親力の出番はいや増す。地域の少年団などに子どもが所属すると、コーチはほぼ「パパコーチ」。コーチにならずとも父親が付き添うのは子どもに良い影響が大。

子どもはさまざまな父親と関わり、「たくさん父親がいる」状態になる。普段の登下校や遊び時間に関わる母親たちではない、普段は会わないたくさんの父親が、自分のことを気にかけてくれる。この状態が子どもにとって悪いはずがない。子どもにとってとても心強く安心できる。

さらに、たくさんの父親を見ることで、「おとなって意外に勝手なことを言うものだ」と子どもは知る。大人もそこそこ勝手なのだと知ることは、子どもも自由にやっていいのだという安心感につながる

父親力はテキトーさとわがままでできている

子どもが主体になってしまいがちな母親に対して、自分が主体であることを見失わない父親。母親から見ると「自分も子どものまま」「わがまま、テキトー」と見えてしまう父親の態度。でもこれこそが父親の真価。

テキトーでわがままな父親は、子どもにとって「自由でカッコいい」と映る。「のびのびしていて、自分ものびのびできる」とも。心がのびのびできる子どもは強い。のびた余白に生きる力は生まれる。

父親のテキトーさとわがままが、子どもの生きる力を、生きる意志を育てる。

すべての父親よ、自信をもって、テキトーにわがままに生きろ。

(②思春期 はこちら↓)


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