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親になって読み返す「少女の器」必要なのは積み木をすべて崩す覚悟


灰谷健次郎さんの「少女の器」を開いて早々に、ノックアウトされる言葉がある。

思春期だの反抗期だのそんなことばを使ってわたしたちを見る大人ってつまりは怠け者なんだ。…思春期だの反抗期だのといわれている子もいろいろいるんだから。同じ人間なんてひとりもいないのよ。…なにか自分の手に負えないことがあると、思春期だからねとか反抗期だからねといっとけば、そのいろいろの部分を考えなくてもいいから楽じゃない。つまりは怠け者っていうことよ

主人公の絣という少女が母親に向けて言った言葉だ。

このくだりを読むたびにハッとする。

初めて読んだのは大学生の時。そうそう!よく言ってくれた!おとなってずるいところ、あるよね、とニヤニヤしたのを覚えている。

それから20年。その思春期や反抗期に近づいてきた子どもを3人抱える母として読む時、この本はほんとうに気づきに満ちている。

そう、おとなって、親って、私ってずるいんだ。

私は子どもたちにできるだけ「おとなの理由」を押し付けないように気を付けてきたけれど、それでも時々ずるくなってしまう。「うちはうちよ、よそはよそ」と言いながら、「あなたもそんな年ごろだからね」なんて言ってしまいそうになる。

自分たち親のことは個別事象として考えろと子どもたちに要求しておきながら、子どもに対しては知ったかぶりのカテゴライズをしがちだ。

思春期だからね。

反抗期だからね。

そんな年頃だからね。

これらの言葉で子どもたちをカテゴライズすることは、子どもたちに対する理解の努力を放棄することになってはいないだろうか?といつも考える。知ったかぶりになって、私は子どもたちを突き放してはいないだろうか。

今、我が家は子どもたちを、とてもカテゴライズしやすい状況にあると思う。

理由は個別にあるにはあるけれど、子どもたちは上から順々に不登校になったし、「おとなになんかなりたくない」と日常的によく言われる。一番上の子は起立性調節障害という病気の症状が重ために出ている。

不登校について、「お兄ちゃんが学校行っていないから、あなたも何となく行きたくないんでしょう?」という言葉は、学校からも言われたことだ。

「おとなになんかなりたくない」という子どもたちの思いに対して、「そういう年ごろだもんね」と答えるのは簡単だ。

上の子の病気に関して、「病院からはこんな症状が出るって聞いたから、そうなんでしょう?」と片付けるのは気が楽だ。

こうやって「言葉で片付ける」のは、とても楽だ。カテゴリーに収めてしまうと理解した気分になれる。特に問題が込み合っている時は、とても救われた気持ちになれる。そのカテゴリーの言葉こそが子どもたちの思いだと勘違いすることができる。

カテゴライズすることは守りだ。親にとっては未知のものから身を守る壁になる。ちょっと気が楽になることがそれを証明している。大きな問題にぶつかった時、ひとはカテゴライズしたくなる。

同時にカテゴライズは、子どもにとっても壁になる。親からの理解の手が絶たれ、突き放されてさえぎられる壁。

親はずるいのだ。といつも私は頭に叩き込んでいる。先に生きてきた分、知ったふりができる。思慮深いふりができる。理解したふりができる。

子どもはカテゴライズなんて求めてはいない。自分たちにラベルを貼ってほしいなんて望んではいない。

子どもたちが親に望んでいるのは、「自分をひとりの個別の人間として」理解してほしいということ。そして、今この一瞬の重苦しさ、つらさ、悲しさに寄り添ってほしいと思っている。

親は、私は積み木を積み上げたがる。自分が積んだ子育ての積み木。土台はしっかり積んだはず。崩れたりしない、と思っている。だから、このまま上に積み上げていけば、きっとうまくいく。

違う。と絣の言葉に触れて思う。

カテゴライズしたくなるほどの問題にぶつかった時、親に必要なのは「積み木をすべて突き崩す覚悟」だ。これまでの経験から得た経験則、予想をすべて取り払って、子どもと一緒に初めから考えること。

積み木の土台から突き崩して、一段目から積みなおす覚悟。

「あなたにはあなたの理由があるのよね」と言いながら、子どもと一緒にもう一度積みなおす覚悟。

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