見出し画像

【Road toベビマセラピスト①】「存在」への興味を探求し尽くす時がきた

「存在」への興味がすごくあります。

役に立つかどうかで人を見たらその時点で終わる、みたいな人間がたくさんいるなぁ

存在にしてることもしてないことも
根本的に良いも悪いもないのだが
ただこの世に存在してることの奇跡はめちゃくちゃ感じてるなぁ

心技体を伴った人間として自分が存在して何かを感じで体験して表現することの世界への影響力とかが計り知れないパワフルなものなんじゃないかと思うがそれは自明ではないことになっているなぁ

何をしてもしなくてもできてもできなくてもすでに存在に価値がある、だからこそやりたいことはなんでもやったらいいしやりたくないことにべきで縛られるのではなく自分という存在が体験してることを混じり気なく受け取ってアウトプットすればいい

死んでたとしても人は「存在」し続けてるんだけど、一方で、体があってここに生きてますっていう存在はマジで唯一無二だな。体すげぇ。

そんな様々な感慨があるのだけど
入り口のニュアンスは微妙に違えど全部

---
いること
存在すること
そのものの価値に関心がある感覚

---

につながっているんだなー、とだんだん分かってきまして。

以前は、

老いても病気でも
いわゆる社会的に価値を出せる人生産性が高い人じゃなくても
存在価値はあるはずだ

という信念から証明したい!そんなエネルギーがありました。

私自身が生産性と無縁と自分を思っててその価値証明をしたかったし
若い日に人生捧げた介護的ケアの営みの中で
それをやってる自分もその対象となってる家族も…
社会貢献し納税する力がない病人や老人は
姥捨山的に存在を消していいという価値観からしたら
介護の中で感じる豊かさも苦しさも全部無意味ってことになるけど
そんなはずないよね
こんなに一生懸命生きててそりゃないよね
と自己証明をしたかった。

そこからいろいろ学んできて
そして子どもを産み新しくこれから育っていく命と共に暮らしながら
また私の中の感覚もアップデートされてきて・・・

今は、証明という感覚はもう超えた感じで
それはわたしの中ではすでにもうそうであるって体感に統合されて
だからこそこれからはその感慨を行動に実装して体現して
もっともっとがんがん用いていきたいし
そうしながら一生探求していく甲斐があるトピックであり続けている感じ。

そんな中このたび札幌に拠点をおく
ベビマスクールHOCORUの中島直子さんから
ベビマセラピストのための学びを受け取ろうと決めました✨


ベビマっていうと、ママと赤ちゃんがふれあえて
赤ちゃんがご機嫌になって、楽しいね〜ほっこり

みたいなイメージなのではないかと思いますが・・・

直子さんがベビマを通じて伝えてきたことって
一人一人の存在の奇跡を体を通じて体感すること
「触れる」「触れ合う」ことで愛を自動的に伝え合ってしまう体験。
それが人間にもたらす大きなゆるみや安心。
そこから世界をみると見え方が変わってくる
そういう人が一人でも増えることで世界がまた変わっていく・・・
そういう大きな大きなめぐりの最初の一滴になるような
圧倒的な存在承認と自己表現の喜びの世界なのかなって思っていて。


そして

(人の肌に)触れること

それはこのわたしの
存在への深い関心の
ひとつの核になる答えみたいなやつ。

自分自身の体験の中から自分なりにすでに人生に取り込み
その意味もすごく感じていただけに
大切すぎて本丸すぎてなかなか正面から向き合わなかった
というかもうこれ以上向き合わなくていいかなと思ってきた世界なんだけど

今だし
私がやったらいい

と思えたので、やることにしました。

いること存在することそのものの価値を
自明なこととして心から信じて
自分と相手と一緒にそれを体で感じる
人権がどうとかの理屈を超えて
そこにあなたもわたしも存在しているということを
身体で感じた時にあらわれるもの残るもの

それが世界にもたらすもの

それを格段に深く受け取り伝えるための学び。

私にとってめちゃくちゃ面白くて大切な学びになることは間違いなく
私の今やってるすべての活動
英語コーチングも、育児も
ミセスコンも(これまだ書いてないままだけど)
動画も、あと旅案内の仕事も子育て支援の仕事も
地域や家庭内での対話とか
これからやっていきたい対話の場作りとか
全部の根底の器をどーんと広げてくれる体験になると思う。
というかそういう体験になるように私自身が取り組む所存。


そう、この、ここでいう「器をどーんと広げる」の感覚。
これも言語化しておきます。

キャパが大きくなる、寛容になる・・・
「器を広げる」にはいろんなニュアンスがあると思うんだけど

ここでの私にとっての意味は

触れること=存在を感じること
を躊躇う抵抗をリリースし超えていく

って感じかな。

例えば昔の男友達とか…
恋愛感情関係なく、やっぱり愛しい。
すんごい仲良かった人の話とかじゃなく
極端な話、一度でも会った人の大半が愛しい。
嫌いな人だって存在レベルだと愛しいです。
トランプ氏だってプーチン大統領だって
意見合わないしやり方ひどいし物申したいことは山ほどあるし
「さわる」「さわられる」の関係はまっぴらごめんだが
「ふれる」相手としては、存在としては、愛しいよ。

詳しく知らないがみんなそれぞれ頑張って
ここまで生きてきたことは間違いなく
全力でそれを感じてハグしたらひとりひとりに対して泣いちゃいそう。
あんた一生懸命やってきたよ、知らんけど。

大変だったねかわいそうだねの同情とか
好きですすごいですの評価からくる涙じゃなく
いてくれて嬉しい、それだけ、知らんけど。
そんな感じなんだけど。

でもそんなの変人だよね。
涙ってもっと同情とか恋慕とか特別な感情がのってると誤解されそうだし、引かれたり気持ち悪がられたら悲しいし
逆に、俺のこと好きなんだ触ってもいいんだって勘違いされるのも嫌だ。

そういうんじゃないが愛しい。
というこの私の変態な感覚はどうせ伝わらないだろう。
と思っている私がいるわけだ。

だからツンデレなふりして平気なふりしてちょっといじりあってるくらいがちょうどいいよね、みたいな距離を作ろうとする感じ。

でもほんとは何も恐れずただハグしたい。
愛しさが溢れてギューっとしようが涙が出ようがどんな自分でも恥ずかしくないじゃん。
怖さもあるまだ器が小さい自分がバレてもそれだって大丈夫じゃん。

引かれたっていいし
ほんとに純度高くそれをやってたら
きっと伝わるんだよ
引かれるってことがそんなに起きないと思うし
それによって危険にさらされることもそれほど無い気がする。

それを圧倒的に信じて
息をするように自由にわたしの感じるままにできるようになりたい。

そこに行くために・・・
て言葉にするとストイックな感じになるけど😅
それって私にとってより自然で楽で生きやすい状態で
パワフルにパフォーマンス上がるからもっと楽しくご機嫌な世界。

ただただより一層、身軽に喜びを感じて私の人生をやりきりたいので
より深く「存在に触れる」の世界を学んで
わたし自身の存在をさらに開く大事なきっかけになる気がしている。

・・・ちなみに
そのあたりの感慨とか感触に触れるから
COTENラジオも好きだしBTSも好きなんですよねー💜

思索や知的活動から伝わり合うこと
歌って踊ってそれを推して伝わり合うこと
それも面白いから私も受け取ったり自分でもやってみたりしつつ
「体の存在そのものに触れる」っていう営みは
私の本丸っぽいんだよなぁ。

だからそこのリソースを本格的に搭載しないまま
ひっそり家族とのスキンシップを楽しんでます
みたいなの、なんかもうもったいないなってなってきて。

そんな並々ならぬパッションで
「触れる」に大きな可能性を感じながらこれからベビマセラピストになっていく私!

この学びのプロセスなどもここで紹介できたら
「触れる」に抵抗があるけどなんか気になる方にも
これから赤ちゃん育てる人、漠然とベビマに関心がある方にも
ベビマと自分は無縁と思っているが実は「触れる」をどこかで渇望している企業戦士みたいな方々にも
何か、どこかでひっかかる言葉が残るかもしれないので
できるだけ書いてみたいと思いまーす。

そして、実際の学びが始まるまではあと1ヶ月ほどあるのですが
それまでの間に、これまで自分自身の体験の中で感じてきた
「触れる」ことへの気づきとかすでに実装している感覚についても
noteに書いてみたいと思います。

それが、さらに深まったり広がったりつながりなおしたり
あるいは何かが解消したり昇華していったり。

before afterを感じるのもたぶん面白い。

ではでは、「ふれる」の旅へ、Let's go!(昭和な終わり方w)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?