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別段何もない日のふたりの特別

緊急事態宣言が解除されたけれど、日曜日の車の量が増えた道を想像するだけで出かける意欲を無くすジーン。
「でこぼこ、行く?久しぶりに…。」
少しポッコリしたお腹を摩りながら言う。正しくは、『でこぼこ山』ではないけどね…と心の中で突っ込みを入れながら、
「うーん。」
と返事した。そう言えば、コロナで騒がしくなってから登っていない。人と会うこともそうそうないトレッキングだ。何度か行っても良かったのに、もう二年近く行っていなかった。自粛していたわけではないけれど、何となく遠ざかっていた。まあまあハードだから、気合がいる。
行こうと決めて山の方へ歩き出したはいいが、風がキツイ。
「麓でこれで、山の上はどうなんだろう…?」
風に足を取られて転げ落ちたりしないだろうか?ちょっとスリルを感じるほどの強い風だった。
ジーンは兎も角、私は家で過ごしていたってダンスダイエット継続中である。あんまり変わってないのが残念過ぎるけど、ほんの少し引き締まってきたし、何より気分がいいから続けている。だから、久しぶりのトレッキングもへっちゃらだと思っていた。けれど、山に入るまでの住宅街を抜ける坂で、すでにバテバテだった。最近見てないけど、走りに自信のある芸能人たちが駆け上がる、心臓破りの赤坂以上の坂道である。
何とか山に入ると、木々のお陰様で風の強さは感じなくなった。その代わり、風が木々を揺らす音が凄まじく駆け巡っていた。風がどこにいるかが分かった。
片道1時間コース。いつも頂上までに一度、大きな岩が重なるところで休憩する。豆を挽いていれたコーヒーを水筒に持ってきた。しかし今日は辿りつけるだろうか…。足がガクガクしてきたし、岩を登るのが大層豪かった。休憩ポイントが遠くに思えた。振り返ると、ジーンはいない。しばらく佇んで息を整えながら待っていると漸く見えた。いつも、私が先へ行く。ジーンは一歩一歩、歩幅小さくゆっくりと登ってくる。
やっとの思いで休憩ポイントに着いた。
「こんなにきつかったっけ?」
「な。しんどっ。」
「ちょっと、くじけそうになったわ。」
ジーンはへへっと笑った。きっと、自分もそう思っていたんだろう。
コーヒーがとても美味しかった。もうここが頂上としてもいいかな?と思っていると、ジーンが何か差しだした。チョコレートだった。
「わっ。そういうとこ好きよ。」
本当にそう思った。ジーンは私よりよっぽど気が利く。この岩の上で美味しいコーヒーとチョコレートは最高だ。だから、やっぱり頂上へ向かう。この家からのトレッキングコースは、ここまでが一番キツイ。残りの頂上までの道は少し緩やかになる。
落ち葉のふかふかの道を登りつめれば頂上だという最後の道の途中、霧雨が降り出した。嫌な感じはしなかった。周りが明るくて、きっとすぐ止むだろうと思ったからだ。狐の嫁入りだと祖母なら言っただろう。厚い雲の間から光が時折射す中、風に煽られる霧雨は微かに冷たく感じただけだった。
頂上でもう一度コーヒーとチョコレートを楽しんだ。
「疲れたね。」
「今日は素直に帰ろうか。」
全く別の住宅街の脇へと出ていくコースと、もっと遠くへ行くコースもある。元気で体力に余裕がある時は大回りで帰るが、誰が見ても二人ともすでに疲れ果てていた。来た道を帰ることにした。膝のばねさえ上手に使えば、帰り道は楽なもんだ。足取り軽く、しかし霧雨で滑りやすくなった岩には気をつけてドンドン下りていく。歩きながら、弛んできた顔を引き締める為の「ウィスキー」顔運動をする余裕すらある。鉛の様に重たかった足が噓のように軽い。ジーンは下りも慎重さを保ったままゆっくりとついてくる。
ジーンは方向音痴で怖がりだ。意外にも学生の頃から山登りに行っていた私は、山道の進み方が何となく分かる。ジーンは最初の頃、その道を読めずに立ち尽くすことがしばしばあった。だから、いつも私が先に行くのだ。
「虎みたいやな。」
「ええ。寅年ですし。」
そう言う点では、全くジーンは兎のようだ。
大きな鉄塔があるところでほんの少し空が抜けた場所がある。そこでひとまずジーンが来るのを待とうと振り返る途中だった。
目に飛び込んできたのは大きな虹だった。あんなに大きく虹を見たのは初めてだった。しかも虹は同じ目線かわずかに下にあった。
「見て見て見て見て‼」
瞬間的に叫んでいた。
「見た見た~。虹やろ?」
ゆったり歩きながらジーンが来た。このテンションの違いは何なのか…。でも二人とも確かに興奮していた。明るい日差しと、さっきの霧雨。虹のできる要素はあったのだ。
小さい頃、虹を見れたらものすごく嬉しくて、特別な気がしていた。大人にになった今でも同じだが、小さい頃ほどの特別感が薄れていたかもしれない。雨の後に晴れてくると虹を探す。そうすると思ったより虹を見つけることができるからだ。こういう時に虹が出る…と言うことを知ってしまったのだ。だけど、今日の虹は不意打ちだった。その分特別に思えた。
何より二人とも見ていたことが特別だ。ジーンは流星群の類や、遠くに見える花火のラスト、なでしこの金メダルを決めたゴールの瞬間…そんな瞬間をよく見逃す。私ひとりで興奮していることが多い。
しばらく揃って虹を眺めた。はたと大慌てでカメラに収めたが、虹はゆっくりと消えて行った。こういうのは脳裏に焼き付けた方がいいに決まってる。
何とはない一日が特別になった。とてもいい気分だ。こういうのを幸せだと言ってもいいよね…と思ったら、久しぶりに心が高揚した。

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消えゆく虹…。


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