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試練はみんなにあるものか?

人は生まれて死ぬまでに、いくつかの試練を与えられる。

そして、それをどうやって乗り越えるか、はたまた、ただやり過ごすのか…。

その成り行きを、目には見えない何か大きなモノに見られながら生きている。


なんてことを常々思っている。馬鹿馬鹿しいと言われそうですけど。

思い返せば、二十代まで敢えて幸せだと感じたこともなければ、不幸と思ったこともなかった。嫌いな人も周りにはいなかったし、好きな人ばっかりだった。三十代前後から怒涛の試練の嵐が吹きまくり、「あ~。自分は幸せだったんだ~。」と初めて思った。

理不尽なことに陥ったり、言われたり。

どうやっても好きになれない人、いや違うな…大っ嫌いな人!が出来たり。

人を傷つけたり、傷つけられたり。

自分の力ではどうしようも出来ないことがあることを知ったり。

お金で人が変わることを知ったり…。

きっと、遅咲き。世の中にはもっと幼い頃からそういう事を感じている人はいるはず。私の場合は、二十代後半から三十代の十年ほどの間に、感情の振り幅が広がった。私の二十代にはおよそ『喜』と『楽』しかなかったけど、漸く『喜怒哀楽』が揃った感じだ。

おかげで、幸せの中では気づけなかった、人の痛みが知れたし、幸せ…とか愛情…とかを実感できたように思う。そうは言っても、まだまだ知らない痛みや傷があるだろうけれど、試練は、痛みや傷によって『気づき』を与えてくれる。そういう『気づき』が多ければ多いほど、人に優しくなれる気がする。

ところが、時々、この人には試練が無いのでは?と思う人がいる。まるで二十代の私のように『気楽』に『お』をつけた様に生きている人がいる。しかも、中には私よりもはるかに長い月日を生きて来られた人もいる。おかしいではないの。全ての人に『試練』というものはあるもの…ではないの?ある人においては、私から見ると試練を受けたと思うのに、喉元過ぎれば全く変化がない人とか…。どういうことなの?と思ってしまう。ま、そういう人の人生を隅から隅まで知っているわけではないから、本当のところはどうなのかは知らないけれど。

何も、他人が苦しんだり、不幸になるのを望んでいるのではない。そうではないけど、腑に落ちない。みんながそれぞれ『気づき』の引き出しをいっぱい持ってれば、すんなりいくことがたくさんあるだろうし、人を思いやることができるだろうにと思ってしまう。

なのに、思ってたのと違~う。そういう人は、余程ご先祖様が徳を積んだのでしょうか?試練を試練とも思わない強者なのでしょうか?試練を受けても、何の『気づき』もない不感症なのでしょうか?それともそれとも、試練をスルーできるチャップリン的な人なのでしょうか?

そういう人に会うとドッと疲れてしまうのです。そして、深呼吸がやたらと増えている。でももしかして、三十代の色々が全くなかったら、私もそういう人になってたかもしれない?…寒気がします。

もしかしたら、私の勝手な仮説が間違っていたのかもしれない。全ての生きとし生ける者が『試練』を受けるもの…ではないのかも。人には自分では気づいていない、様々な役目があるのかもしれない。ドラマのキャストの様に。『試練を受ける人の試練の一部』という役目とか。だとしたら、その役目の人に試練がないのは合点がいく?。

書き出しの内容よりはるかに馬鹿馬鹿しいな。だけど、そう思えばいくらかモヤモヤが晴れる気がする。私はこの度、『試練を受ける人』という役目を与えられたようだ。試練の大砲が降ってきたら、まず感謝!嘆くことは何もない。人と比べることでもなければ人をうらやむこともない。日々の私の中に湧き出る『喜怒哀楽』をどう気づき、どう向き合うか。目には見えない何か大きなモノが見てくれている。一生、懸命に生きよう。

だから、時々は褒美を…褒美をくだされ。

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