大人になってみるアニメ

朝、アニメの時間に「フランダースの犬」を放送していた。
朝ドラ「なつぞら」がアニメーションに関連していたこともあり、じっくり見たことも無いと思ってビデオに録って見ることにした。最終回だけは知っている。教会でネロとパトラッシュを天使が空へキラキラと連れていくあのシーン。

何気に見始めたが、朝から切な過ぎた。
いい大人もいい友達もいるが、愚かで醜い大人が酷すぎる。なんでそんな仕打ちが出来るのかとムカムカする。だが、ネロは怒ったり拗ねたりしない。まだ子供なのに、分かってもらえないと癇癪を起すこともない。悔しさ悲しさをグッと堪えて、前を向こうとする。その姿にもイライラしてしまう。もっと大人に頼ればいい。頼って甘えていい状況だし、それが許される年なのに、なぜそこまで耐える?とイライラする。そのネロを健気に支えるパトラッシュもいじらしい。挙句には風車小屋に火をつけたと村中の大人に放火犯だと疑われる始末だ。仕事もなければ、お金も食べるものない。あるのはルーベンスの描く絵のような絵を描きたいという情熱。
手にしたお金で食べるものを買うか、ルーベンスの絵を観るか。
その二択にネロはルーベンスの絵を観ることを選んだ。

私ならどちらを選ぶだろうか?一時の空腹を満たす為か、心を満たす為、どちらに大事なお金を使うだろうか?少し考えたが、今の私には容易に答えが出なかった。有難いことに、そこまでお腹を空かすこともないし、悲しいことに命をかけて心に留めておきたい何かもなかった。そういう点では自分を見失いやすい世の中なのかもしれない。
それでも偽善的に言えば、心を満たす為にお金を使うが宜し…といいたい。でも、生きていなくては話にならない。生きてればいつかまた観れるかもしれないのだから。それはそうだがタイミングということもある。それを逃せばもう観れない、あるいは、今その時に観なければ意味が無いということが時にある。結果的にはネロはあの絵を観ることが出来て空腹を満たすより幸せだったかもしれない。そして、あの最終回を迎えるのだ。
もう、朝からやりきれない気持ちでいっぱいになってしまった。
全てをそぎ落とした時、自分は何を求めるだろう。

こどもの物語に嫌な友達がいつも出てくるが、嫌な大人も随分出てくる。結局はいやな友達より嫌な大人によって翻弄される。大人はいつでも誰でも手本にはならないと言うわけだ。
先生、会長、父に母…立派だと思いたい大人にそうでない人が混じっていてもおかしくない。肩書と人間性はかならずしも等しくない。

10月に入って「小公女セーラ」が始まった。ここにもまた嫌な大人がいる。ミンチー学院の院長先生は下種な大人である。でもこれはハッピーエンドだと知っているので、院長先生が憎らしくても、そろそろセーラが屋根裏部屋生活を強いられることになって腹立たしくても見ていられる。

オープニングとエンディング曲は聞けばすぐ思い出せた。昭和な感じで懐かしく、つい感傷に浸ってしまう。よくよく見ていると、なかにし礼さん作詞、作曲は森田公一さん 、編曲が服部克久さんと豪華なタッグだと気づいた。通りで沁みるわけだ。気づけば鼻歌を歌っている。

こどものアニメを大人になって見返して、色々感慨深い今日この頃である。



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