難病の二人

同じ難病の二人がいました。

しかし、
二人の環境は、その生れた時期から育ちまで、
全く異なっていました。

αが生まれたのは、βが発症した年でした。
αは、その十数年後の発症でした。

βの発症の頃から、
その難病は、社会から誤った偏見を持たれており、
そのため、多くの医療医学の関係者からも、非協力でした。

しかし、
αの両親はαに理解ある人々で、
そのため、まもなくに、熱心な理解ある医者を見つけ出し、
αに様々な医療や理解の協力を行ないました。

医師や両親の熱心さもあり、
αの友人だけでなく、学校や地域も
温かい理解と協力に進みました。

その頃には、ブログなどの各種発信にも至れる時代であったため、周囲の協力を得た、難病の啓蒙発信を始め、
医師や両親や学校からの協力の背景も確認したメディアが、公的な啓蒙の機会の提供にも至りました。
それを見聞きした、遠くの知らない人達からの
温かい言葉も、受けることになりました。

αは、難病への払拭されぬ偏見を憂いながらも、
多くの夢も、周囲の協力によって叶えられて行きました。

βは、元々虐待の両親の下に生まれていました。
しかしそんな両親の理解に努めながら、
合わない者同士が静かに離れられる独立の時を夢に、笑顔にも努めました。
しかし
その独立の機会を、当時の社会の常識や、両親の強固な依存や、犯罪が幾度も阻み、
それでも一度は出た実家に、両親に騙される形で戻ってしまいました。
βはその際に発症をしました。
両親が騙してまでβに強要した勤め先は、ある意味両親同様の思考で、
結局、両親同様の結果、βはとうとうの悪化で寝たきりになりました。
寝たきりになったβは、両親からのネグレクトを受けることとなり、
何日も連絡なく出勤をしなかったβを、勤め先は冷遇となりました。
時代はまだ、オンラインもメールも携帯電話もない頃でした。
βは寝たきりで、電話口まで歩くことも、電話口で話すことも、できない状態でした。

βは元々勤め先で熱心でありました。
熱心に務めるでもしないと、現実がつらくていられなかったのです。
そのため周りは信頼を向けておりましたが、
そんなβを妬む者も、またいたのです。

そんな者たちにとって、βの難病での欠勤は、大いに悪用したいものでもありました。

また元々βは寝たきりとなる前に、
体力の限界を感じており、
それゆえの退職届も用意したのですが、
上司に突如の直行直帰が続き、
その提出をできないうちに、寝たきりで動けなくなったのでした。

そのような事情にも、偏見から耳傾けられぬまま、
全くの勤め先の都合のみで退職日も決められてしまい、
本来より退職金も失業保険も大きな減額となりました。

勤めの頃に、病院へも行きましたが、
徹頭徹尾の非協力により、
悪化の一途をこらえて勤めており、
その様子は周囲も見ていた筈でしたが、
両親のネグレクトな事情までは殆どが知らずに、
理解をしようとしませんでした。

その後も、医療のない長年に、
似た事は繰り返され、
何年もネグレクトな実家から、
命辛々、逃げはしたものの、
社会の何処にも理解者はなく、
再三の困窮となりました。

それでも日雇いや水商売もして、再三に自身の復興をはかったβは、
そもそもの難病の環境改善を切望し、

(続く)


















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