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(82) ”心が病む”ということ

「おしっこ!」と、チビ坊が言うようになった。

九月からあのチビ坊が保育園に通うことになった。保育園はオムツはダメと言う訳ではないだろうが、大変な苦労をしながらトイレトレーニングをして来たらしい。またひとつ大きな能力を身につけた。あの、幼い中何もかも良く出来た姉よりも早くオムツのお世話から自由になった。ついこの間までオムツでお尻が膨れていて、「みなしごハッチ」のようなフォルムだった。言葉が遅いチビ坊だが、凄いことをやってのけた。まぁ、ご苦労だったのはママなのだが。

そんなチビ坊の成長の様子から、様々な事を学ばされる。チビ坊はオムツから解放され自由を獲得する道の先に、保育園に通い始め、「ママから離れなければならない」ということになるのだが、それを未だ知らない。保育園の体験入園の時には、泣いて先生に抱っこしてもらったようで、通い始めたら「ママ」と叫んで泣くに決まっている。ひとつ成長して何かを獲得したら、それを足場に次のことにまた挑戦となる。また、泣きながらその次、その次ということだ。「人生」とはこういうことなのだ。終わることがない。ゴールがないのだ。

チビ坊を見ていると、オムツを卒業したことが嬉しい様子だ。「おしっこ!」の合図でトイレに付き添う。勢いよく飛んでもいいように、向こうむきで便座に座らせる。背伸びしても洋式便器の高さに届かないからだ。自ら「シューッ!」と言いながら、便器におしっこを飛ばすのが解放的なのだろう。嬉しそうだ。考えてもみれば、チビ坊はオムツからの自由を獲得した先、悲しみが待っているのだ。朝から保育園に預けられ、泣く思いで一日ひとりになるのだ。他のチビッ子と友達になれる日まで・・・。あんなに幼くて園に通うチビ坊のことを思うと泣けてくる。

人はこんな時、「折れたり」するものだ。”心の病”は、こんな「重圧」の時発症する。チビ坊は泣きわめくが、”心の病”にはならない。「流れを読む」・「あれやこれやを考える」・「不安になる」・・・そんな上等な”知恵”をまだ持ち合わせていないことが幸いなのだ。みんなに大切にされ、いつもすぐそばにママが付き添い世話をしてもらい、ママ・パパが居てくれて
「自分は大丈夫」と、いっぱいの保障をもらって来た。”全能感”を育ててもらい、「自分は大丈夫」という顔をしてやんちゃしきりである。それに加えて上等な”知恵”を未だ持ち合わせていないから、「離れる」→「ひとりになる」→「不安で仕方ない」に”病む”ことはない。だとすると、”心が病む”ということは成長して上等な”知恵”を持ち合わせたということの上で起きることになる。その通りなのだ。上等な”知恵”で考えられるようになったから”心が病む”のである。その上等な”知恵”で考えられるようになって、「流れを読む」・「あれやこれやを考える」・「不安になる」ことが、余計に考え過ぎ”病む”方向に行った時、どうにもならない大きな「荷」を背負うことになる。だからまず、上等な”知恵”を持ったことを自分なりに評価すべきである。大きな評価をして良いはずだ。”知恵”があるから”病む”ことになるのだが、”知恵”の働かせ方に少々の「難」がある場合、要注意となる。「思考の歪み」とは自身の「中核」になっている「信念」そのものである。他者を、自分を、肯定的に見ることが出来るか、それとも否定的に見てしまうのか、ということに集約されるのだ。

その「信念」は幼児の時、親との信頼関係がどう結ばれたのか?に由来して、その後”基本的構え”と発展し、もの・事を見るレンズに練り込められていくと考えて欲しい。”中核信念”と呼ばれている。自他を否定的に見るレンズで外界を見ることになると、そのレンズは歪んで見えているから、何もかもそのように外界を受け取ってしまうことになる。歪んで自身の中に取り入れたものは「決まって屈折した」”思考”と結びつくから痛いのだ。その上、自身が潜在的に持っている「不安」と結びつくこととなり、大きな負荷を自身に与えることになる。”心が病む”とは、そんなメカニズムなのだ。

チビ坊は両親の愛情を受け、「快感」の只中にいる。おしっこが自分で出来ることが自慢でもあるのだ。九月から預けられる。ママ・パパ・姉との信頼と愛情の「思い出」が浮力となり、泣きながらひとりに耐えるはずだ。爺としては心配だから、こっそり見に行きたいと思っている。


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