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(71) 蝶のように

蝶がやって来て飛び回る。何か良いことが起きそうな予感をくれる。ついこの間までどこかでイモムシだったのに、「華麗なる変身」である。羨ましいと見とれてしまう。

私たちはと言うと、「華麗」どころか「小さな変身」さえも出来ず、相変わらず昔を引きずったままだ。昔のままならまだましな方で、駄目なところを引きずり、より大きくし、日々圧倒されたままで変わることが出来ないでいる。

クライアントの方々が、まるで申し合わせたように決まり文句を述べられる。
「先生のご提案に腹の底から賛成です。その方向に努力したらきっといまより楽になれると思います。ただ・・・」
「ただ、何でしょう?」
「その訳は、きっと私自身の問題だと思います。ご提案に、よし、それで行くぞ、と、決断できない身動きの取れない・・・いや、むしろ、昔のままでいたい、変わりたくない、変わるものか、いや、
変わってたまるか、などという気持ちがきっとあるんです」

寛解状態になられてからの、クライアントの方々との毎度のやり取りである。私はよく思う。
「人は本当に変われない」と。
今苦しくても辛くても、どうにかこうにか生きて来られた。これからもこれでいいのではないか?と思うのだろうし、人が変わるにはどんなにか大変なことが待っているのではないか?と思うに違いない。単純に、「私が私でなくなる」のではないか、と不安になるのだろう。どうであれ、あなたはあなたなのだが・・・。

臨床場面で実感として、「人は本当に変われない」んだと、思い知らされる。骨の髄まで、細胞のひとつひとつにまで、人は自身の「価値観」・「思考」・「スタイル」やそれらに「当てる感情」の全てが染み込んでいるのだと痛感して、胸が締め付けられる。「楽に生きられる」道が目の前に見えていてもである。華麗な変身を遂げる蝶たちだが、見とれてしまうのは、その変身に憧れているからなのだ。人に決して好かれないあのイモムシが、人の注目を集める蝶に変身するのだ。私からすると、凄いことなのだ。イモムシ→さなぎ→蝶と変態するのは承知の通りだが、まるで別物への変身である。さしずめ私たちの変身は、たかだかヘアスタイルを変えたり、化粧の仕方、今までにない服を着てみたり、プチ整形ぐらいのものでしかなく、別物への変身ではない。

「別物」になりたい。
そんな内面的変化をも伴う変身をしたいと、強く憧れている。生き易くなるために、常にポジティブに考え柔軟に思考して、幅の広い視野を身につけ、自他共に肯定出来て、寛容に変化出来たら、カウンセラーなどいなくていいのだ。そんな思いを込めて面接室に座り続けている。クライアントの方々を変身に向けたいと願っている。しかし、「人は本当に変われない」を一番痛感しているのも私である。

その蝶たちも、イモムシ→さなぎに変態する際、我が身を溶かして液体になると言う。さなぎを開いたら虫のスープ以外はないらしいのだ。「成虫原基」と呼ばれる。そこから成虫(蝶)になるべく、我が身を「再構築」するのだ。並地底のことではないだろう。「蝶」となるために、彼らはその並大抵ではない「再構築」をやり遂げるのだ。変われない愚考の只中にいるこの私は、イモムシにもなれないのだ。はるかにイモムシは私より上等なのだ。

「人は本当に変われない」と言ったが、実に見事に自らを作り直され変身されるケースもある。それなりの時間は必要であるのだが。その方々は、本当に「背負った荷」が重かったのだろう。「変わらねば生きていけない」と思われたに違いないとは思う。しかし、「変われるか」「変われないか」は、そう思うことによるものではないと強く思う。長期間、その方々を支えなければならない私は、ほんの小さな変化も見逃すわけにはいかないから、何しろクライアントの観察を怠るわけにはいかないのだ。その観察の中で、変化されていく方々に共通した要因は何か、を見つめ続けている。長期間の臨床の中で、その要因が薄っすら見える。それは、”素直さ”だと気づかされる。”素直さ””囚われない心”であろう。”疑わない心”でもある。

私たちは少しでも自由でいたい。「苦」に縛られてはいられない。
人生はそんな為にあるわけではないからだ。”素直さ”が、私たちがイモムシのように蝶へと変態を遂げ、自由にはばたく為の自己の「再構築」の大きな要素かと実感する。その”素直さ”は”寛容さ”によって補完されるものだ。


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