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村上春樹の様々な「街」

(23-05-12:阿美寮について末尾に少し追記)

村上春樹の新刊「街とその不確かな壁」は、めずらしく後書きが付いてて、その中にこんな一節があった。

 ホルヘ・ルイス・ボルヘスが言ったように、一人の作家が一生のうちに真摯に語ることができる物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られた数のモチーフを、手を変え品を変え、様々な形に書き換えていくだけなのだ−−と言ってしまっていいかもしれない。

村上春樹「街とその不確かな壁」あとがき

村上春樹にとっての、この「手を変え品を変え」というのには、思い当たる節がいくつかあったので、メモ書き代わりにここに残しておく。

特に結論めいたものは、ここにはない。相応のネタバレは含んでいる。


 村上春樹の小説群には、現実世界から異界に行って戻ってくる、入れ子の構造が使われることがある。
 例えば「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は、東京で暮らす青年の脳内に「世界の終わり」と呼ばれる異界がある、という構造になっている。

◆世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド
36歳の村上春樹

 「東京」の私と彼女
 (
  「世界の終わり」の僕と彼女
 )

続く「ノルウェイの森」では、時系列を超えて入れ子になっている。37歳の主人公が、20歳前後の出来事を回想する場面から始まる。直子の暮らす阿美寮は、東京から見ると異界とも取れる。

◆ノルウェイの森
38歳の村上春樹

 「ハンブルク空港」の37歳の僕
 [
  「東京」の19歳の僕と直子
  ↓
  「東京」の20歳の僕と緑
  (
   「阿美寮」の20歳の僕と直子
  )
 ]

「海辺のカフカ」は、主人公を田村カフカとすると、東京(高松(図書館(森の奥の街)))と、入れ子構造の奥へ行くごとに異界の度合いが深まっていく。…ナカタさんを絡めると更に複雑になっちゃうので、ここでは省く。

◆海辺のカフカ
53歳の村上春樹

 「東京」の僕
 ↓
 「高松」の僕とさくら
 [
  「甲村図書館」の僕と佐伯さん
  (
   「森の奥の集落」の僕と佐伯さん
  )
 ]

「街とその不確かな壁」は、「ノルウェイの森」に見られた時系列の入れ子と、「世界の終わりと…」で見られた異界の入れ子とが、輻輳して組み合わされている。

◆街とその不確かな壁
74歳の村上春樹

 「東京」の40代の私
 [
  「故郷の町」の17歳のぼくときみ
  (
   「壁の中の街」の私と君
  )
 ]
 ↓
 「Z**町図書館」の40代の私と彼女
 (
  「故郷の町」の17歳のぼくときみ
 )
 ↓
 「壁の中の街」の私と君

 ちなみに、それぞれの作品に登場する「世界の終わり」「森の奥の集落」「壁の中の街」は、描写からして同じ街らしいが、細かな違いがある。
 「世界の終わり」にも「森の奥の集落」にもある電気が、「壁の中の街」には無い。コンピュータ導入を頑なに拒む「Z**町図書館」と、何か関連しているのだろうか。
 また、「世界の終わり」にいた「門番」と「一角獣」は、「壁の中の街」では「門衛」と「単角獣」と呼ばれている。これは、違うものであることを表すための工夫なのだろうか。

 あるいは、老賢人的な立場のキャラクターとして、「世界の終わりと…」には博士が、「ノルウェイの森」には永沢さんが、「海辺のカフカ」にはカーネル・サンダースが、「街とその不確かな壁」には子易さんが、それぞれ登場する。
 けど、老賢人が去るのを見送りそれを惜しむ、というシチュエーションは、「街とその不確かな壁」が初めてなのでないかと思う。

 さらに言えば「阿美寮」も、壁に囲まれていて門番のいる異世界の集落という意味では、「世界の終わり」等と同じなのかもしれない。
 阿美寮の壁は「越えようと思えばいくらでも越えられる代物」だし、門は開けっ放しだし、門番はただの年寄りだけど、それでも壁は壁だし、門は門だし、門衛は門衛だ。
 また阿美寮には「影」がいないが、あるいは死んでしまったキズキがその代わりになるのかもしれない。