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『サザンクロス ラプソディー』vol.30

「ヤマさん、明日はいよいよロンドンに向けて出発だね。シドニーを離れるのは寂しいでしょ?」

「そうだね、ツグミ。三年半くらいここにいたから、寂しくないといったら嘘になるよ」

「でも、ユウカさんと向こうで落ち合うんでしょ? きっと、楽しいことがいっぱい待ってるよ」

「ああ、そうだといいけどね......」

ツグミは日本で勤めていた仕事を、三月の中旬に辞めて、久しぶりにシドニーに戻っていた。
しばらくはポールといっしょに過ごすという。
ツグミは相変わらずポールにぞっこんだ。

俺が心配していたツグミとポールの電子ジャーに関しての揉め事は、結局起きなかった。
それどころか、新しい高性能の電子ジャーで炊いたご飯がよっぽどおいしかったんだろう。
ツグミは、「ユウカさんに感謝だね。ロンドンで会ったら、私がありがとうといっていたって必ず伝えてね。お願いね」といってペコリと頭を下げた。

ユウカは二月の中旬に日本に帰っていた。

ある日突然、ユウカは、「私もヤマさんも、誰も知り合いのいない土地で、ふたりで過ごしてみたい」といい出した。

「私、できればイギリスへ行きたい。ねえ、いいでしょ?」

そういいながら、ユウカはベッドのなかで俺の脇腹をこちょこちょとくすぐった。

ゴルフ好きのユウカは、「ゴルフ発祥の地で一度はプレイしてみたい」と目を輝かせた。

俺はくすぐられるのにめっぽう弱い。ユウカはもちろんそれを知っている。

「わかったから、行くから。くすぐるのだけはやめてくれーっ!」

ユウカのくすぐり攻撃に、俺は大した抵抗もできず、秒で白旗を揚げ、イギリス行きを承諾した。


「ヤマが抜けるのは痛いけど、昨日、ちょうど知り合いから、『ここで働かせてもらえないだろうか?』と打診を受けたばかりだったんだ。タイミングがよかったな、ヤマ」

「三月下旬までに店を辞めたいんです」俺がその理由も合わせて加茂下さんに伝えると、こう返事が返って来た。

「ひとりで行くの? 誰かといっしょだよね? 白状しなよ」

「実は、向こうでユウカさんと合流することになっているんです」

もうこの店も辞めるんだし、別に隠すこともないだろう。俺は本当のことを伝えた。

「やっぱりね。ふたりは怪しいと思っていたんだよ。ヤマはいいよな......あんないい女をゲットして」

村岡さんは羨ましそうにため息をついた。

「なんか、すみませんでした」

俺はこれまでユウカとのことを、加茂下さん、村岡さんのふたりに黙っていたこと、それと、その事実がバレてしまった照れ臭さもあって、申し訳ないという風な顔を作った。


「ここに帰ってくるつもりは本当にないのか? ヤマのためにこの部屋を取っておくのはまったく構わないけど」

俺が部屋を出ることをポールに伝えると、ポールはほんとうに悲しそうな顔をした。

ポールは俺との別れを惜しんでくれているのは間違いないだろう。
けれど、それよりも、俺がこの家を去った後、次の住人が見つかるまで、ポールは家のローンをすべてひとりで負担しなければならない。
ポールはきっとそのことを考えているのに違いなかった。



俺が店を辞めることを加茂下さんに伝えたこと、この家を出ることをポールに伝えたこと、ロンドン行きのチケットを手配したことを、ユウカはしかと見届けた。

そして、ユウカは、俺とユウカのふたりがイギリスでどのように過ごしていくのか、その計画を立てるために、いったん日本に帰った。

その当時、インターネットはやっと普及し始めた頃で、サクッと検索なんてことはできなかった。
なんに関しても情報を得るには、その信憑性も考慮すると、かなりの労力を要した。



俺とツグミとポールの三人で、キッチン横のベランダでそんな話をしていたら、突然、ポールが、ガラス天井を指さして、「空が真っ赤だ!」と驚いたように叫んだ。

俺たち三人が物干し台の上まで行き、赤く染まった空を確認する。それは空港がある方角だった。

「どうやらあっちの方だ。ちょっと行ってみないか?」

ポールが顔を輝かせている。

「うん、行ってみようよ」

ツグミも俺もその話に乗った。

ポールの車で俺たちがその近くまで行くと、警官が「ここから先には入れない」と規制線を張っていた。

俺たちは仕方なく、近くで車から降りると、かなり遠くで立ち上がるオレンジ色の炎を見つめた。

そこはガスコンビナートだった。

十二機のガスタンクが並んでいるなかの、ちょうど真ん中のガスタンクから火柱が立っていた。

「わーっ! きれいっ!」「すごいな、なんだあれ?」

などと、歓声が上がっている。

俺たち三人もそのなかに交じってその光景を見つめていた。

そして、それは一瞬だった。

さっきまでゴーゴーとものすごく大きな音を立てて立ち上っていたその火柱が、唐突にスーッとその姿を消した。

「炎は消えたね。きっと消火されたんだね」

俺がツグミに話しかけたその次の瞬間だった。

再び息を吹き返した炎が真ん中のガスタンクから両側に広がると、ドーンっ! とものすごい音を立ててさらに大きな火柱が上がった。

からだを吹き飛ばすようなすごい爆風と共に、まるで時間が止まったかのように、あたりは真っ白な光に包まれ、「逃げろーっ!」ひとびとのそんな怒号があたりに飛び交った。

俺たち三人は車の方へ一目散に駆け出す。

一瞬振り返った俺は、目に飛び込んできた、暗闇のなかに立ち上がる巨大なキノコ雲にことばを失った。

翌日、俺が乗る予定の飛行機は、この爆発事故のせいで、出発が三時間ほど遅れた。
その遅れのせいで、この後のすべての乗り継ぎが狂ってしまったのだった。

マレーシアのクアラルンプール国際空港では、俺を含めたオーストラリアからの乗客たちだけを長時間待っていたんだ、とグランドスタッフから急かされて、あの広い飛行場を端から端まで全力疾走する羽目になったりもした。





「ユウカ、俺だけど」

「ああ、ヤマさん。いまどこ?」

「どこって、ロンドンのビクトリア駅にいるよ。時間になっても、約束の場所にユウカが来ないから、もしかしたらと思って電話したんだけどさ」

「私、さっき日本の家に着いたばかりなのよ」

「どういうこと?」

「私、一度はロンドンの空港、ヒースローだっけ、そこまで行ったのよ。けれど、あの暴動騒ぎでしょ。おまけに私、片道のチケットしか持ってなかったし、英語でいろいろ訊かれても、うまく答えられなくて......それで気がついたら強制的に日本行きの飛行機に乗せられてしまっていたのよ。そういうわけで、ついさっき、家に帰り着いたところだったのよ。帰りの高額なチケット代も含めて、ほんとうに散々な目に遭ったわ」

「そうだったんだね。大変だったね、ユウカ」

「それにしても、よく入国できたよね?」

「うん......なんとかね......」

「それでね......神様が行かない方がいいって、私にいってるような気がするのよ」

「まあ、確かにそんな気もするよね。なんでふたりともこんな何十年に一度の暴動が起こった最悪の日にロンドンに着いてしまったんだろう......」

「だから、私はもうロンドンへは行かないから。ヤマさんはどうするの?」

「俺もほんとうは明日にでも帰りたい気分だけど、店も辞めてきただろ? そんなにすぐにとんぼ返りなんて、ちょっと恥ずかしい......」

「じゃあ、一度日本に帰ってくる?」

「いや、日本は......まだ、いいや」

日本へ帰るつもりなんてさらさらなかった。

「じゃあ、どうするのか決まったらまた電話して、いい?」

「わかったよ。じゃあ、また」

予定していたユウカと過ごすはずだった楽しい日々は、こうして儚く消えた。

俺は電話を切ると、さあどうしよう? とあれこれ考えを巡らせる。

この二日前、1990年3月31日。

4月1日からの人頭税の導入をめぐり、反人頭税集会のため、ロンドンのトラファルガー広場に集まった十万人を超える群衆の一部と警官たちが閉会後に衝突した。

暴徒化した一部の人々は、投石、車の放火、店の襲撃などを行った。

そのせいで、その騒ぎが収まるまで、多くのひとびとが空港で足止めを食らった。
ユウカも俺もそれに巻き込まれた。

もともと、イギリスでは、不法就労、不法入国、非正規滞在に対して普段から目を光らせていて、片道切符での入国に関してはかなり審査が厳しかった。

フランスからイギリスまで、一番近いところでは、直線距離で、約三十五キロメートルしかないドーバー海峡を、ボートで渡るなどして、不法入国するひとびとも多かった。

暴動が治った後、入国審査の列がやっと進み出した。

俺もユウカと同じ片道切符だったが、オーストラリアで何年も暮らし、正当なビザで就労していたことは大きかった。

それと、イギリスへはイースターホリデーを利用して遊びにきたことを力説した。

事前にホテルの予約をしていなかった俺は、ノートに控えていた、飛行機のなかで知り合ったイギリス人の名前と住所、それに電話番号を係員に提示した。

そして、俺はなんの問題もなく入国を許された。

日本のパスポートの信用度も、もちろんあったことは間違いないだろう。

俺のまえに並んでいたシドニーから道中ずっといっしょだった数名のオーストラリア人たちは、入国できず、係員にどこかへ連れて行かれた。
なぜ彼らが入国審査に引っかかったのかは、俺にはまったくわからなかった。



手荷物受取所のターンテーブルの前で、手荷物が出てくるのを待ち構えていた俺は、途方に暮れていた。

ひとり、ふたりと出てきた手荷物を手にして、税関へと進む人たちを横目で見送りながら、俺はひとりその場に取り残されていた。

俺が預けた手荷物は、待てど暮らせど、ターンテーブルにその姿を現さなかった。

シドニーからここロンドンまで、トランジット八回、所要時間にして約三十六時間、プロペラ機を乗り継いでのフライトだった。

それで、俺が預けた手荷物はどこかへ行ってしまったのだった。
乗り継ぎ便への積み込みが間に合わなかったのか、それとも紛失してしまったのかはわからなかった。

近くにいた空港スタッフにそのことを伝えると、ロストバゲージのカウンターまで案内してくれた。

荷物タグの半券と搭乗券を提示すると、しばらく待たされた。
そして、紛失証明書を発行してもらった。


長時間にわたる空港内での足止めの後、やっと入国を果たした俺が、外に出ると、真っ暗な空からは真っ白な雪が舞い降りていた。

三月三十一日に雪?  エイプリルフールには一日早い。

俺は自分の目がにわかには信じられなかった。

預けておいた手荷物がどこにあるのかわからなくなったせいで、寒さ凌ぎに羽織えるような服も手元にはひとつもない。

薄手の長袖シャツ、ジーンズといった着の身着の儘で、機内に持ち込んでいたセカンドバッグひとつだけを携え、粉雪の舞い散る寒空の下、俺はひとり佇んでいた。

心細さは半端なかった。

初めて訪れた国だ。しかも、暗いだけじゃなく、凍えるように寒い。

空港から地下鉄で市内へ向かった。

地下鉄の駅を出ると、すぐにホテルを探した。最初に目に入ったホテルに入る。宿泊代は目玉が飛び出るほど高かった。
しかし、長旅で疲れ果てていた俺は、躊躇うことなく即決でそこに泊まることにした。

翌日、俺はフロントからのチェックアウトの時間の知らせで起こされるまで、文字通り死んだように眠っていた。

素早く身支度を整え、ホテルをチェックアウトした俺は、フロントで訊いた情報をもとに安宿を探した。

B&B、いわゆるベッドアンドブレックファストの安宿を探す。
ホテルのフロントに教えてもらった裏通りを進んでいると、歩き始めて十分ほど経ったところで、運良く手頃なところが見つかった。
とりあえず三日間の予約を入れる。

そして、宿のフロント係にお願いして、宿の名前、電話番号、住所、宿泊する予定の部屋番号を、紛失証明書に記載してあった電話番号に連絡してもらった。

俺の手荷物は、その翌日には宿に届いた。



結局、俺はイギリスにしばらく留まることにした。

勤めていたレストランを辞めてここまでやって来たんだし、いっしょに楽しいときを過ごすはずだったユウカは、俺のとなりにはいなかったが、元来、行き当たりばったりの出たとこ勝負で生きてきた俺だ。

なにか面白いことが起こるかも? そう思うと俄然楽しくなってきた。

〈続く〉


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

話は続きますが、不定期更新なので、次はいつになるのか今のところ未定です。ご了承下さい。

尚、全く内容の違った作品も間に投稿する予定です。これについても、予めご了承下さい。

今回のこの作品は、1990年頃の物語という設定ですが、実在する人物、店舗、団体、地名などとは一切関係ありません。


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