短編小説 『遼之介は..。 再会』
この作品は、約12000字の物語です。
*
「遼ちゃん。遼ちゃんいる?」
「なんだよ、理沙。ここ、ここにいるよ」
「また、そこにいるの?......」
最近俺は羽を広げて飛ぶことが自由自在にできるようになったこともあって、いまはまったく読むこともない、五百冊程度の小説が乱雑に並べられた本棚の上で過ごすことが多くなった。
というのも、部屋をすこしでも広くしたいから、俺の本棚をリサイクルに出していいか? と、ある日突然、理沙が怒ったようにいい出したからだ。
当然のこと、棲家を失った本棚のなかの住民である本たちは、もれなく買い取り業者に引き取られることになる。
とりたてて有名作家の初版本だとかの高額な本があるわけでもない。
ただ、俺にとって、本たちが身近にあるのとないのとでは、物語を作り出す上では大きな違いがある。
俺が遼ちゃんハウスでうとうと気持ちよく寝ている間に、本棚ごと処分されたら困るから、その監視の意味でも理沙がいる昼の間はここで過ごすことにしている。
「遼ちゃん、ねえってば!」
「なんだよ、理沙? ダメだからな。この本たちは俺のからだの一部みたいなものなんだから、処分なんて絶対させないからな」
「だって、遼ちゃんってば、ゴキになってから一冊も本なんか読んでないじゃん」
「だって、それは俺のこんなからだで本を捲れないからだろ」
ゴキになってから、視力がかなり落ちて、三十センチも離れれば、ぼーっとして焦点が合わない。一度、理沙に手伝ってもらって、本を読もうと試みたことがあった。
そのときは、もうちょっと下、もうちょっと、とピントを合わせてみたら、結局俺が本を読むのには、五センチくらいの距離じゃなければ無理だった。
その距離で見る文字はかなりの大きさだった。漢字なんか、獣に姿を変えて俺を襲ってくるような錯覚を起こさせるほどの迫力だ。
それで理沙が俺を手のひらの上に乗せて、すこしずつ読みやすいようにずらしてくれたのだが、この軽い俺のからだを「なんか、重たい」とかいい出した。
そしてそのあと、「手のひらがくすぐったい」とかいって、突然俺を放り投げた。
読むことに集中していた俺は、受け身も取れず、からだをしたたかフローリングに打ちつけて、三日間くらい、自分でハイハイもできないくらいのかなりのダメージを負ってしまった。
あんな風にしてしか本を読めないのなら、とてもじゃないが、時間がかかってしょうがない。
俺専用の眼鏡でもあれば話は別だが。
理沙に読んでもらおうと試みたこともあった。
ほとんど棒読みの理沙に、俺は自分に甘く、他人に厳しい、こんな性格だ。
「そこはそんないい方はしないだろう?」とか、「おまえの声色じゃ情景も目に浮かばない」とか、いちいちダメ出しをするもんだから、最後には、理沙はヒステリーを起こして、「やーめたっ!」といって、そのとき読んでいた本を俺に投げつけた。
五百ページ近いハードカバーの本だった。
あのときの理沙の瞳には明らかに殺意の色が浮かんでいた。
俺がいち早く避けていなかったら、今ごろは天国にいただろう?って、ゴキって天国に行くんだっけ?......。
それ以来、俺はこれらの本にはまったく触れてもいない。
「ねえ、遼ちゃんってば......」
「絶対ダメだカンナ」
「......」
理沙は黙って俺を睨んでいる。
そして、思い出したように目を大きく見開いた。
「そういえば、遼ちゃん。お父さんから手紙が来てたよ」
理沙はそういって俺のまえに一通の封筒を差し出した。
「開けて読んでくれよ、理沙」
「......」
理沙は明らかにご機嫌斜めだ。こんなときは下手に逆らってはいけない。
「理沙さん、誠に申し訳ないのですが、お手紙を読んでいただけないでしょうか?」
「あのさ、そんな高い位置から見下ろされながらお願いされてもね......」
こんな口調のときの理沙には、絶対に口答えしてはいけない。
俺は羽を広げて羽ばたき、ふわりと理沙の足元に舞い下りる。
我ながら、こんなことができるようになったことに、すこしの成長を感じる。
そして俺は頭を下げる。もともと床スレスレに近い位置の俺の頭だ、這いつくばって土下座をするようにお願いする。
「理沙さま、お願いですから、お手紙をお読みいただいてもよろしゅうございますでしょうか?」
自分でも、丁寧になるべく丁寧にと思っていっているうちに、なんか変な言葉使いになっている。
「よかろう、苦しゅうない。読んでしんぜよう」
時代劇好きの理沙は、俺につられたのか、変な言葉使いになっている。
「えーっと、前略。遼之介、元気にしているか。実は今度、再婚することになった。ついては、彼女をおまえに一度紹介しておきたい。次の休みの日に家まで来てくれないか? そのまえに一度、電話で連絡をくれ。必ず連絡してくれ。純一郎」
俺が実家を出てから、一度だけ親父に手紙を書いたことがある。
家に置きっぱなしにしていた、高校の卒業アルバムが必要だったからだ。
スマホがぽしゃって、そこに入っていた、俺にとっては貴重な数人の友人の連絡先もダメになったためだった。
そのとき、親父と話もしたくなかった俺は、いま住んでる住所に送ってくれと頼んだ。それで、親父は今回ここに手紙をよこしたというわけだ。
「えっ! 親父が再婚?......」
「どうする遼ちゃん? 電話だけでもしておく?」
「そうだな、無理だってとりあえず連絡くらい入れとこうか」
「じゃあ、さっそく」
そういって理沙は、手紙に書いてあった番号に電話する。俺は親父の電話番号なんか登録もしていなかった。電話するつもりもなかったし。
「はい、もしもし?」
親父だ。
理沙は通話をスピーカーに切り替えて、スマホを俺に突きつけている。
「もしもし、俺。遼之介だけど......」
「おお、遼之介か? 元気だったか?」
「うん、なんとかね。それより、再婚するって......いったい誰と?」
「明子さんだよ。おまえの母親の.....」
「えっ!母さんと?......」
「ああ、そうだ。明子さんが突然帰ってきて、もう一度いっしょに暮らしたいといってくれたんだよ。このまえまで、あの光というホストと付き合っていたんだそうだが、やっぱりあいつの職業柄、女出入りが激しくて、ついに明子さんもあいつに愛想をつかして、サヨナラしてきたそうだ。明子さんもおまえに会いたがっている。一度、顔を見せてくれないか?」
「そうなんだ......会いたいけど、いまは無理なんだよ。本当に申し訳ないけど......」
会えるわけがない。いまの俺の姿なんか、両親どころか、事情を知らない誰にも見せられない。
「そうか、なにか理由があるんだな。わかったよ。まあ、再婚といっても、明子さんとだから、結婚式を挙げるわけでもないし。おまえが来られるときに訪ねてきてくれればいいから。じゃあな、遼之介。連絡してくれてありがとう。元気でな」
親父と話すのも家を出てから初めてだった。だから、もう三年になるのか。
「遼ちゃん、かわいそう......」
理沙はぐすぐすいいながら、目にいっぱい涙を浮かべて泣いていた。
「理沙、ありがとうな......」
「遼ちゃん、かわいそう......」
理沙は同じことばを繰り返した。
そうか、俺はかわいそうなんだな。
冷静に考えればそうだろう。
人間だった俺が、いまはゴキだ。
その姿を見ただけでおおかたの人間が忌み嫌うゴキだ。
この姿で幸せなはずがない。
そう思ったら、俺も泣けてきた。
しかし、不思議なことに泣いている感覚はあるものの、目から涙は一ミリも出ていない。
おしっこはちゃんと出るのに、目から涙は出ないんだ。
そう考えたらまた泣きそうになったが、目から涙はやっぱり出ない。
「なあ、理沙。お願いがあるんだけど......」
「なに、お願いって?」
「このまえ、まさみの家に行ったときみたいにさ、俺を理沙のポケットのなかに入れてもらって、家まで連れて行ってくれないか?」
「えっ! だって、私......遼ちゃんのお父さんとは面識もないんだよ。いきなり行ってなんていうのよ?」
「あらかじめ、俺が親父に電話して、『いま一緒に暮らしている恋人で、将来を約束した女性がいるから、是非ともふたりに会ってもらいたい』って伝えとくから。それで、『俺から預ったお祝いの品をお持ちしました』とでもいってくれればいいよ」
「遼ちゃん......けど、それって、遼ちゃんがいっしょじゃなきゃ、すごく変じゃない?」
「そりゃそうだけど、なんていうんだよふたりに? 『はーい、遼之介です。お久しぶりです。俺......な、なんとゴキになっちゃった。すごーく不思議でしょ』とでもいうのか?」
「それに、私っていつ遼ちゃんと将来を約束してたっけ?」
「まえに理沙は、『いい加減小説家になる夢をあきらめて、ちゃんと仕事を探してよ。私も、田舎の両親の手前、いつまでもひとりではいられないんだから』っていってただろ?」
「ああ、それは遼ちゃんがまだ人間だった頃の話だよね? いまは、みんなの嫌われ者のゴキじゃん。いったい誰がゴキと幸せな結婚生活を夢見るっていうの? そんな女がいるのならここに連れてきてよ!」
「おい、そんな冷たいこというなよ。このまえ人間に戻ったときはあんなに喜んでくれたじゃないか。好き好きって理沙のからだもいってただろう?」
「な、なにいい出すのよ。この変態! 居候の分際で、私にそんなことをいうの?」
ま、まずい。いま理沙を怒らせたら、話もなにもあったものじゃない。
「ごめん、理沙。俺はただ両親に会いたくて......というか理沙に俺の両親に会ってもらいたいんだよ。こんなに可愛い女性とこんな俺がお付き合いしてるんだって自慢したいんだよ」
「ま、まあ......そこまでいうんなら、行ってあげてもいいけど......」
理沙の口もとが綻んでる。やった、よかった。機嫌は直ったみたいだ。
理沙は単純だから、褒められるとすぐに木に登る。
「本当に? 理沙、ありがとう」
「私、あのお気に入りのジャケット着ていくつもりだから、今度はお漏らしなんか絶対しないでよね! わかった?」
「わかりました。なんならオムツでも穿いて行こうか?」
「ゴキのオムツなんてどこにも売ってないわよ。馬鹿なの? 遼ちゃんってば」
「......すみません。絶対お漏らしなんかいたしませんから」
「わかればよろしい」
理沙は腰に手を当てて、お得意の仁王立ちのポーズだ。鼻の穴も膨らんでいる。
「で、でかいな......」
下から見上げる理沙はいつものようにでかい。理沙のこのポーズを見るといつも思うのだが、まるで変身ヒーローが巨大化しているようだ。
理沙がスカートのときは、パンツ丸見えだから、俺としては下から見上げるこのアングルはちょっとうれしいことだが。
「は? いま、なんかいった?」
「ありがとうっていったんだよ。うれしくて、涙でことばが詰まって、上手くいえなかったんだよ。本当にありがとう」
おっと危ない。またいらんことで理沙の地雷を踏むところだった。
*
そして、約束の日の朝。
「理沙、理沙! 起きろ」
「うーん、もう時間? もうすこし寝かせてよ......」
俺は理沙のほっぺをぎゅーっとする。
「痛っ! なにすんのよ? 痛いじゃない、遼ちゃん」
そういって、目のまえの俺を見た理沙は、きょとんとして、口は半開きだ。唇の端によだれの跡が光っている。
どうせ、おいしいものを食べる夢でも見ていたんだろう。
「また、人間の姿に戻ったよ」
人間に戻った俺の姿を見ても、理沙はこのまえみたいには驚いていない。
ひとは、やっぱりものごとに慣れる生きものだ。
「本当だ......よかったね。こんな絶妙なタイミングで。じゃあ、今日は遼ちゃんひとりで行ってくる?」
「いや、もうすでに理沙が行くことになっていたろ。だから、俺と一緒に来てくれ」
「えーっ......なんか気が乗らないなあ......だって、遼ちゃんのお父さんも、お母さんもいるんでしょ? 」
「俺、冗談抜きで、理沙を俺の両親にちゃんと紹介しておきたいんだ」
「だって......もし遼ちゃんが、ご両親の目のまえでゴキの姿に戻ったらどうすんのよ?」
「いや、それはきっと大丈夫だ。前回は、ひと晩寝たらもとに戻っていただろ? たぶん今回もそうだと思う」
「うーん、そうだね。私もそんな気がする。まあ、しょうがないね。一度は私ひとりで遼ちゃんをポケットに入れて行くつもりだったから。それに比べれば、遼ちゃんが一緒ならまだマシか」
「それで、理沙はこのまえいってたように、あのお気に入りのジャケットを着て行ってくれるのか?」
理沙はどちらかというと、普段着はジーンズにパーカーといったラフな格好が好きだ。
俺の両親に会ってもらうにはそれではちょっと困る。
「......」
「おい、着ていかないのか?」
「なんか、ね......」
「どういう意味だよ?」
「遼ちゃんが一緒だったら、別になんでもいいかな、なんて思って。だって遼ちゃんはラフな格好で行くんでしょ? 遼ちゃんをポケットに入れる必要もないし。あのジャケットはある意味お守りがわりに着ていこうと思っていたのよ」
「えっ! 理沙は俺の両親に気に入られたくないのか?」
「うーん......ノーコメント。まえにもいったけど、ゴキの遼ちゃんとの将来なんて夢見られないわよ。夢見る乙女ではいつまでもいられないのよ! 来年私は二十九歳。私のなかでは、女としての賞味期限が近づいているのよ」
「それは、よくわかる。俺が逆の立場だったら、きっとそう思うだろう。けど、頼むよ。これこの通りだ、お願いします」
俺はぺこぺこ頭を下げてお願いする。
そして理沙の両手を取って見つめる。
「今夜、死ぬ気でご奉仕しますから、お願いします。一緒に来てください!」
「.....まあ、そこまでお願いされちゃ。私も鬼じゃないから、行ってあげるとしますか」
以前理沙は、冗談か本気か、「遼ちゃんの取り柄って、エッチが上手なこと以外なにもないね」といったことがあった。それはつまり、俺とのエッチだけは大好きだ、ということだろう。
いや、理沙。おまえの顔さ、たまに本当の鬼に見えることがあるんだけどな。
*
「遼之介、久しぶり。彼女さんも、ようこそおいでくださいました。ありがとうございます」
俺がよく知っている親父とはまったく違う愛想のよさに、正直、俺は面食らった。
「遼ちゃん、元気にしてた? ごめんね、突然いなくなって......」
俺はおふくろにいいたいことはたくさんあった。けれども、おふくろの顔を見たら、そんなことはどうでもよくなった。
ただ、俺はおふくろの姿が、声が、恋しかっただけなのだ。
目のまえの親父とおふくろは、俺がかなり小さい頃に何度か見たことがある、ふたりがすごく仲がよかった頃にもまして、イチャイチャしまくり、バカップルぶりを炸裂させていた。
おふくろは自分に正直なひとだし、恋愛体質だ。
両親が仲が悪くなった原因は、俺への教育方針の違いもあったが、それ以上に、男と女としての営みがまったくなくなっていたことが一番の原因だった。
「それで、遼ちゃんはいまどんな仕事をしているの? 小説の方は書いているの?」
俺は理沙と予め打ち合わせをしていたように、ふたりに説明する。
「そうなんだ。話を聞く限りでは、ちゃんとした会社のようだね。それに、小説もいまだに書いているって聞いて、私すごくうれしいよ、遼ちゃん......」
おふくろは今にも泣き出しそうに、目に涙をいっぱい溜めていた。
俺が実家を出ることになったのも、大学進学をあきらめ、バイトしながら小説投稿サイトに小説を書き続けることになったのも、もとはといえば、おふくろの明子がホストの光にうつつを抜かし、親父の純一郎と離婚することになったからだった。
恨み節をいえば、いくらでもいえそうだった。
しかし、そのおかげで、俺が理沙というかけがえのない存在に出会えたのは紛れもない事実だった。
「いいひとに出会えてよかったね、遼ちゃん」
おふくろは素直に喜んでくれている。
「ああ、理沙は俺にはもったいないくらいの素晴らしい女性だよ」
「昔から、『年上の女房は金の草鞋を履いてでも探せ』というからな。甘えん坊の遼之介にはこれ以上ない女性だな。おまけにこんなに可愛い」
「いえ、そんな......」
親父のことばに理沙はうれしそうに頬を赤らめ、うつむいた。こんなところは外面のいい理沙らしい。
あの仁王立ちした、鬼の形相の理沙の姿をふたりに見せてやりたい。
「それで、遼ちゃん。理沙さんとはいつごろ結婚しようとか、具体的な将来のことはなにか考えているの?」
「いや、まだだけど.....」
「理沙さんのご両親にはもうご挨拶はしたの?」
「いや、それもまだだけど......」
「遼之介、それはダメだ。できれば、すぐにでもあちらのご両親にはご挨拶に行きなさい。本当は同棲し始めたときに、ちゃんと筋を通しておくべきだったんだぞ。カラスや猫みたいに自由恋愛で生きていくわけにはいかないだろう?」
そういわれて、『カラスや猫の方がまだマシだよ。なんせ、俺はゴキだからな』と思ったが、もちろんそんなことは口に出せるわけがない。
「あの、ご心配していただいて、お気持ちは本当にうれしいんですけど、私、遼ちゃんが小説家として食べていけるようになるまで、支えていこうと決めているんです。ですから、それまでは、私の両親には心配をかけたくないので、遼ちゃんのことは黙っておくことにしています」
これも、あらかじめ俺と理沙で示し合わせていた通りだ。
「理沙さんは、本当にそれでいいの?」
「ええ、そんなに遠い話でもないと私は思っています。なんといっても、私が見込んだ才能ですから」
これは、手筈にはなかった受け答えだ。理沙はすこしは俺のことを認めてくれている。
ありがたいことだ。
「遼ちゃん、頑張らないとね。理沙さんをいつまでもこのまま待たせるわけにはいかないわよ」
「ああ、わかってるよ。俺は理沙以外の女性との将来は考えられないからな」
それから俺の両親はなんやかんやと俺たちの馴れ初めやら聞いてきた。
おふくろは、理沙も小説を書いていて、本を読むのが大好きだと聞いたものだから、それはたいそう喜んで、俺と理沙の子供はきっとすごい小説家としての才能を持って生まれてくるに違いないといい切った。
「それで、母さんたちは再婚して、これからふたりで生きていくの?」
「そう。結局、私には純一郎さんしかいないもの」
そういって、親父の腕にからだを寄せたおふくろの姿を見て、『まあ、とりあえずはよかった』と俺は胸を撫で下ろした。
*
「理沙、今日は本当にありがとうな」
「遼ちゃんのご両親って本当に気さくでいいひとたちね」
「ああ......まあな」
そういわれて、三年前、おふくろが出て行くまえの毎日のふたりの口論が俺の脳裏によみがえってきた。
一度真底愛し合った相手を、よくもあそこまでボロクソにいえるよな、と戦慄を覚えたことを思い出す。
「今日は本当にありがとうな、理沙」
「ちょっと、疲れたけど、まあ臨時収入も入ったし」
理沙はそういって、茶封筒をバッグから取り出して俺に見せつけた。
「遼ちゃんがトイレにいって席を外したとき、遼ちゃんのお母さんからもらったの。『これでなにかおいしいものでも食べなさい。遼ちゃんには内緒ね』っていって......」
「で、いくらもらったんだ」
「ちょっと、すごいよ。な、なんと五万円」
「す、すげえな。だったら、いまから映画を観たあとで、なんか豪華なものでも食べに行くか?」
「いいねーっ! 今日はちょうど土用の丑の日だから鰻はどう?」
「いいね。俺、関西風の腹開きのあの店に行きたい」
「えーっ、鰻は関東風の背開きでしょ? 遼ちゃんだって東京生まれでしょ? 切腹してどうすんのよ」
「いや、蒸したりなんかしないで直焼きに限るって、食感が全然違うだろ?」
「だって、私、あの柔らかい食感が好きなんだもん。今日は私のいうことを聞いてくれてもいいんじゃない?」
そうだった。今日の理沙には逆らえない。
「わかったよ。理沙の好きな店に行こう」
「やったーっ! 遼ちゃん、いっぱい食べて精力つけてね。なんなら蒲焼きと白焼き、両方とも食べていいから」
そういうことか......俺は両親に会ってくれる交換条件に、夜は頑張ると約束していたんだった。
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映画は理沙の大好きな恋愛ものを観た。いつものように理沙は涙を流し感動していたが、俺はというと、『あーっ、つまんねえ。主人公が死んじゃう悲恋話なんて、ありきたり過ぎるだろ』とボヤきながらも、「俺も泣きそうになったよ」といって理沙が泣き止むまで、理沙の肩をしばらく抱いていた。
*
「遼ちゃん。おいしかったね、鰻重」
「ああ、うまかったな。鰻重なんて本当に久しぶりで、俺、食べていて思わず涙ぐんでいたよ。人間って本当にいいよな」
映画を観たあとで食べた鰻の味は、俺の普段の食事を思うと、まるで夢のようなご馳走だった。
「けど、残念だね。今日一日なんでしょ? 人間でいられるのって」
「そうとはっきり決まったわけじゃないだろうけど、このまえは、そうだったからな、たぶんそうだと思う」
「楽しみだなあ。遼ちゃんとのエッチ」
「おい、理沙。こんなところで、よせよ。大声でそんなことをいうのは」
「ごめん......じゃ早く帰ろっか、遼ちゃん」
理沙は食べた鰻のせいなのか、こんなことを思わず口走るほどヤル気満々だ。
気のせいか、目は爛々と光り輝き、肌はツヤツヤとしているようにも見える。
「ああ、早く帰ってヤるか?」
「やだ、遼ちゃんったら......ヤるなんてお下品なこといわないで」
「どっちが下品だよ? 理沙が最初にいい出したんだろ?」
「お手!」
理沙はつないでいた左手を突然離すと、俺のまえにその手を差し出した。
俺は思わずお手をしそうになる。
「ワンって......おい、俺は犬じゃねえぞ」
「ごめん、なんの芸もできないゴキちゃんだった。すっかり忘れてた」
「いい加減にしろよ、理沙。怒るよ!」
「ごめん......人間の遼ちゃんと久しぶりにお出かけしたから、ついうれしくなっちゃって」
理沙はそういいながら、俺の手を取ると、しっかりと恋人つなぎに変えた。
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「遼ちゃん、今日さ......一緒にお風呂に入る?」
家に帰り着くと、理沙はそういって恥ずかしそうに微笑んだ。
「どうしたんだよ、理沙? いままで家で一緒に風呂に入ったことなんて一度もないじゃんか」
「うーん......なんか、今日はそういう気分なんだ」
「俺はいいけど。でも、ホテルの浴槽とかじゃないから狭いけど、大丈夫か?」
「だって、明日になればまたもとに戻るんでしょ? だったら、遼ちゃんのことを忘れないように、明るいところで遼ちゃんのその姿をこの目に焼き付けておきたいの」
「俺のなんの姿だよ?」
「やだ......そんなこと、私にいわせないでよ」
「理沙も好きだな......」
「遼ちゃんほどじゃないけどね」
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「お姫さま、他にかゆいところはございませんか?」
俺は、日頃俺のからだを洗ってくれる理沙への恩返しに、三助のように、理沙のからだを頭のてっぺんから、足の指の間まで、手と柔らかいタオルで優しく丁寧に愛しむように洗ってやる。
「うん、もう大丈夫。余は満足じゃ!」
「おい、俺はお姫さまを洗っているつもりなのに、いきなりおっさんのからだを念入りに洗っている気分になったじゃないか」
「ごめん、遼ちゃん......わっちは満足したでありんす。今度はわっちに、主さまのお背中を流させておくんなまし」
「おっ! 吉原遊女のお出ましか。なんか、ソープに来たみたいだな。時代は全然違うけど」
理沙は俺のからだのことをよく知っている。どこがくすぐったくて、どこが感じるのか。それはそうだ。ゴキの俺のからだをいつも念入りに洗ってくれているからだ。
おかげで俺のからだはいつもツルツルのピカピカだ。
なんなら、ボディーソープの微かないい香りが漂っているくらいだ。ゴキなのに......。
「あひっ! やめて、そこはっ! ダメだって、理沙。そこは勘弁してくれーっ!」
俺は理沙の指技に、くすぐったいやら、気持ちいいやら、歓喜とも懇願ともつかない、変な声を上げ続けた。
その間、理沙の瞳は悪戯っ子みたいに妖しくユラユラと揺らめいていた。
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「気持ちよかったね、遼ちゃん。どうしたの? そんなにグッタリして?」
「俺、思うんだけど。理沙ってさ、きっとその道でも不自由なく生きていけると思うよ」
「その道って?」
「ソープとかの世界って意味だよ」
「やめてよ、そんなこというの! 遼ちゃんだから、やってあげられるんじゃない。私がお金のためにそんなことなんかするわけないでしょ!」
俺は理沙のこのことばに、『ありがたいな』と心のなかで手を合わせた。
「はい、遼ちゃん」
俺の目のまえには、大好物の三点セットが置かれていた。俺の好きな銘柄の缶ビールとポテトチップスとバターピーナッツだ。
「ありがとう、理沙。けど、今日はこれはいいや」
そういって俺は理沙を抱き寄せた。
「どうしたの、遼ちゃん? 具合でも悪いの?」
「そうじゃないんだ。俺がいま一番欲しいのは、理沙、おまえなんだ」
その夜俺は、風呂場でのお返しとばかりに、理沙を愛して愛して愛し抜いた。
そんな俺に理沙も負けじと応えてくれて、俺たちは、ひとつに溶け合って、これ以上ない幸せな時間を過ごした。
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「遼ちゃん、やっぱりもとに戻っちゃったね」
「ああ、そうみたいだな」
「私、もう仕事に行かなくちゃ。じゃあね、遼ちゃん」
理沙はそういって俺の頭にキスをしてくれた。
これは初めてのことだった。
ゴキの俺を最近では、手のひらの上に乗せたり、撫でたりはしてくれるものの、キスをしてくれたのはこれが初めてだった。
「理沙、気をつけてな」
「じゃあね、遼ちゃん。行ってきます」
理沙はいつものようにパタパタと足音を立てて、部屋を出て行った。
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「遼之介、た、大変だ。明子がいなくなった。俺が老後のために貯めておいた金をそっくりそのまま持って逃げやがった。『このお金は遼之介の大学進学のために私が貯金しておいたお金だから、遼之介が大学進学をあきらめた今、すべて、私がいただきます』と置き手紙を残して出ていった。今回のは短くてこれだけだった」
俺は親父のこのことばを聞いて、そういえば、まえにおふくろが出て行ったときには、二万字にも及ぶ、短編小説風の置き手紙を残していったことを思い出していた。
「落ち着けよ、父さん。俺がこういうのもなんだけど、母さんはあんなひとだ。いまさらなにをいってるんだよ」
「しかし、俺の老後の資金が......」
「そうはいっても、父さんは資産家の息子に生まれて、いま住んでいる家も自分の持ち家だろ? 建物は二束三文だとしても、その土地を売れば、かなりまとまった額にはなるんだろう? だったら、今度こそ母さんに手切れ金をくれてやったと思ってその金はあきらめなよ」
「そんな、簡単にあきらめろっていわれてもな......」
「父さん。でも、久しぶりに母さんといい時間を楽しめたんだろう?」
「......」
俺は、このまえ見たふたりのイチャイチャぶりから、こりゃ何年ぶりかでヤったな、と下品なことを見透かしていた。
「まあ、高級遊女の花魁と、ひと月くらいぶっ通しで遊んだと思ってあきらめなよ」
「明子は花魁じゃないし......」
「ものの例えだよ。でも、母さんはそれくらい、いい女だろ。『来るもの拒まず、去るもの追わず』だよ。父さん......」
「遼之介、なんでおまえが明子がこのまえ俺にぼそっといったことばを知ってるんだ?」
「母さんがそういったの?」
「ああ、明子と最後に夜を過ごしたときにそういっていたんだ。妙なことをいっているな、とは思ったけど、俺を見てうれしそうに微笑んでな。その優しい眼差しが愛おしくてな、たいして気にも留めなかったよ」
「それは......物語でいうところの伏線だったんだな。母さんはたぶん父さんに気づいて欲しかったんじゃないの? 俺が思うに、母さんにはやむにやまれず、そうしなければならない事情がきっとあったんだと思うよ」
「そうなのか?」
「ああ、たぶんな......」
「......わかったよ、遼之介。すまんな、こんなことになって......」
「俺のことはいいから。父さんも、一緒に過ごしてくれる女性でも見つけたらいいよ。この際だから、すごく年の離れた若い恋人でも見つければいいんじゃないか。いつまでも逃したうさぎのことを想っていても、虚しいだけだろ?」
「もしそうなったら、財産をすべて処分して、その若い恋人に全部つぎ込むことになっても、遼之介、おまえはそれでいいのか?」
「俺は父さんの財産なんか端から当てしてないから」
「ありがとうな、遼之介。なんか、元気でたよ。今回のことは残念だが、でも、こうやっておまえとまた話ができるようになっただけ、めっけもんだと思って、明子のことも、金のことも忘れるよ」
「じゃあ、父さんも元気でな。また、いつでも連絡してくれていいから」
「ありがとうな、遼之介......」
電話を切るときの親父の声は涙声になっていた。
親父は頑固で本当に融通が利かないが、人間的に真っ直ぐなひとには違いない。
俺のおふくろも、親父のその人となりに惚れて結婚したのは間違いないだろう。
って......傍で俺と親父の会話の一部始終を聴いていた理沙は、ひどい顔で号泣していた。
マスカラは流れ落ちて、鼻水はビローンっと垂れ下がって、まるでオットセイかと聞き間違うくらいに、「オッオッオッ」っと、嗚咽混じりに顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
ありがたいことだが、理沙のこんな顔を見ると百年の恋も冷めるってもんだ。
「理沙、ありがとうな。こんな親父に同情してくれて」
「お父さん、か、かわいそう......」
「心配すんなって、親父は大丈夫だって」
「なんで遼ちゃんはそういい切れるの?」
「俺は理沙よりも親父のことはよくわかっている」
いまはどうだか知らないが、三年前、俺が実家を出るときに持っていくものを整理をしていたときに偶然見つけた親父の所有物があった。
空の菓子箱のなかに入っていた、某アイドルグループの一番人気の、確か当時十六歳の女の子の写真集と、CDと、何枚もの握手券。
俺の親父がロリコンなのは理沙には内緒だ。
理沙が俺の親父のために流してくれた涙は無駄にはしたくなかった。
*
約12000字の物語、最後までお読みいただきありがとうございます。
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