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『デジタルネイチャー』(6章)を読んで

こんにちは、かず(@kazu_1247)です。

『デジタルネイチャー』(落合陽一著)を読んで学んだこと・考えたことを章ごとにまとめていきます。

まずは、6章「全体最適化された世界へ <人間>の殻を脱ぎ捨てるために」です。

コード化によって変わる遺伝的多様性

人類の進化は、遺伝的多様性の縮小と実質的な拡大をもたらす。(p205)

これから、ゲノム編集の技術によって、遺伝における先天的な問題は解決していく。

遺伝情報が物質としてではなく、電子化され保存されるからだ。これによって、遺伝的な多様性は縮小していく。

一方で、テクノロジーの発達によって、実質的には多様性は拡大していくと、落合氏は述べている。

義足や義手が個々人に多種多様にアダプトしてくことで、先天的な差異を埋めていくからだ。機械的な身体と有機的な身体の差異が縮小することで、<物質>と<実質>はほとんど等価になっていくのだ。

有機的な足に比べ、義足の方が疲れないとなると、義足の方が機能的に優れていると考えられる時代が来るということなのだろうか。足に限らず、様々な身体部分が、個々人の嗜好に合わせてプリンティングされ、機械化されていくのだろうか。しかし、見た目では、そこに有機と無機の差異も感じないのだろう。それは、まさに、物質と実質が等価された世界になるだろう。

解体される、「自我」「幸福」「死」の概念

変化は私たちの身体に留まらない。私たちの精神についての考えも、大きな転換を迫られる。<近代>が作り上げた、自由意志の存在を前提に権利を設定し、それに基づいた幸福を追求する世界は、いずれ終わりを迎える。そして、や<権利>といった価値観の枠組みから解放された幸福が、コンピューターによる生態系の中で自動的に「自然的に」生成される時代が訪れるだろう。その兆候は、既に至るところに現れ始めている。(p210)人間>

人間の自我とは何なのか。

それは、生まれてから現在までの記憶と、それに基づいた判断である。

自我とは、膨大なインプットが生み出した複雑な反応にすぎないのである。

これに対して、深遠な哲学に基づいた言葉は人間にしか生みだせず、それこそが自我の実在の証明であるという反論もある。

しかし、私はあくまで前者の立場である。

例えば、赤ちゃんがそうだろう。

幼い時期に見たもの、感じたもの、その全てがとてつもないスピードでインプットされ続け、その蓄積によって自我が形成されていくと考える。

さらに、落合氏は、哲学的知見も論理的な情報の体系として機械的に再現できるかもしれないと述べている。

たしかに、自我がインプットの蓄積とそれに基づいた判断だとするのならば、人間の哲学的な知見も、当人の膨大なインプットを可視化することによって再現は可能になるのだろう。

そして、これが再現されれば、「人間らしさ」は脱構築されていく。

失われた多様性をインターネットが担保する

ここで、人間を「身体」「意識」「情報」の三層からなる存在と考えてみよう。・・・物理的「身体」の領域においては均質化が進行し、意識の領域においては先鋭化が進行する。対称的な表れ方をしているが、いずれの場合も問題になっているのは、人間のデータがコンピューターに均されることによって生じた「多様性の喪失」への選択である。外れ値を好まないために失われた多様性を、インターネットが担保していくと考えてみよう。(p213)

身体は均質化が進み、意識は先鋭化が進む。

両者は対称的な方向に向かっているようだが、両者ともに、人間のデータがコンピューターによって均されることによって、その多様性が失われてることは同様であるという。

そして、インターネットがその多様性を担保する。担保すると言っても、あくまで外在的にである。

外在的な多様性は重要だろう。

個人では、最適化された情報によって尖った個が生成され、ニッチ化が進む。ニッチ化は良いのだが、ニッチなままで閉じてはいけない。そこで、外在的な多様性を持つことが重要になってくるのだ。

人間の生物的限界を超えた知性が出現する

私たち人間は、生物学的な寿命の限界に縛られて生きている。その中で目的の実現を目指すのであれば、問題を短時間で解決するフレームワーク、先に挙げた「てこの原理」のような高効率な手法によるラディカルな変化が求められる。それに対して、個人の人生を超越した全体性を想定する場合、変化はより長いタイムスパンに及び、ゆるやかな速度で進む。この時間的尺度で捉えたインターネットは、人類の集合知であると同時に、人類の生物学的限界を超えた「寿命から切り離された知識」と言えるかもしれない。(p215)

私は、当然のように、生物学的な寿命の中で生きていると思っていた。

なるほど、インターネットは、生物学的な限界を超えたタイムスパンにおいて知性をもたらすのか。

インターネットの時代に生きる私たちは、個人単位での寿命を超越して存在し得るということなのだろうか。個人の生物学的なスパンが終了しても、例えば、当人の言葉はインターネット上に残り続けるだろう。多くの人々の言葉は集積され、そして最適化されていくのだろうか。

落合氏は、全体性を帯びた事業の例として、サグラダファミリアや伊勢神宮、防波堤を挙げている。そして、トマス・モアのいうユートピアに伊勢神宮が該当していると述べている。

それは、「高度に発達した環境」と「変化のない恒常的な社会」である。20年に一度、神宮式年遷宮にて、同一の社殿を隣に組み上げてから壊すという行為を繰り返すことで、ハードウェアのコピーにのみ準拠しているのである。

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今回は、以上です。

また、『デジタルネイチャー』については、これからもっと時間をかけて(参考書籍なども読みながら)適宜アウトプットしていきます。

著者が三年かけて書き上げたと言っていましたし、僕も全力でぶつかっていきたいものです。

他のビジネス書や啓蒙書のように、ざっくり斜め読みしたり、電車やベッドの上で寝ながら読めるものではないので(笑)

他の章に限らず、6章についても再度アウトプットしていきます。

ちなみに、今は『茶の本』(岡倉天心)を読んでいます。

それではまた。

Written by かず(@kazu_1247



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