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「どうせ、わかってもらえない」をどうする?

「どうせ、わかってもらえない」

私の中に繰り返し出現する言葉です。
「どうせ、わかってもらえない」
と思うのは、
「わかってもらいたい」
という欲求が強くあるからなのでしょう。

人には「わかってもらいたい欲求」があります。

それが生理的欲求か、社会的欲求かといわれると
きっと学術的には社会的欲求の方かもしれませんが、
私は生理的欲求に近い、生命にも関わる欲求ではないかと思うのです。

私がはじめて「どうせ、わかってもらえない」と思ったのはいつなのか、
記憶にはありません。

おっぱいがほしい、ねむい、かゆい、きもちわるい、
など赤ちゃんの時に「わかってもらえない」と思ったのかもしれません。

まだ使いこなせていない言葉で説明して、通じなかった幼児期のことかもしれません。

ひとつ、覚えているのは小学校1年生の時のこと。
算数のテストの答案が返されて、
解答があっているのにバツが付けられていることがありました。
その解答は「7」でした。

私は解答としてこう書いていました。


私は先生に言いに行きました。

すると、先生はこう書かないとダメだと言いました。

「1と7を間違えないようにこう書きましょう」ということでした。

そこまでならまだ良かったのです。
先生は、さらに
「消して書き直した跡がある。書き直したでしょう?」
と言ったのです。
「書き直して答えを変えたのでしょう?」と。

もちろん、書き直したりしていません。
消して書き直した跡は確かにありますが、
それはテストの時間内に消して書き直したものです。

後から書き直して答えを変えてから、先生に言いに行ったりしていません。

その時、「書き直した」と決めつけられたことが悔しくて仕方ありませんでした。

7の書き方が違っていてバツなのは仕方ないでしょう。
1と間違われないようにそう書きましょうという指導は
その時期大切なことだったのでしょう。

でも、
「解答が『7』だとわかっていたこと」
をわかって欲しかったのです。

とても悔しくて「どうせ、わかってもらえない」という思いが
強くなったのを覚えています。

それから大人になるまで、大人になってからも
本当に伝えたいことがわかってもらえず、
悔しい思いをしたことが何度もあります。

これまで私が流した涙の種類を思い起こすと
「悔し涙」が一番多いように思います。

「どうせ、わかってもらえない」

そう思っているのは、思い込みではなく「拗ね」なのでしょう。
でも拗ねていても仕方ありません。

今となっては、その悔しさが、
「どうやったらわかってもらえるのか」
「なぜ、わかってもらえないのか」
を考え続ける原動力となったのかもしれないと思います。

そのことを追求した結果ではありませんが、
私は、20年以上にわたって、
「伝える」ということを仕事にしています。

伝えるプロと言われる「アナウンサー」です。

「伝えるプロ」「話し方のプロ」と言われる度に、
私は「どうせ、わかってもらえない」のに?
とムズムズしていました。

「どうせ、わかってもらえない」と思う背景には、
「わかってもらいたい」という欲求があります。

「どうせ、わかってもらえない」という思いが強い人ほど
「わかってもらいたい」欲求が強いもの。

アナウンサーとしてのスキル、
伝え手としてのスキルは
その欲求を満たすために、身につけてきたスキルなのかもしれません。

「わかってもらうために」私がやってきたこと、やっていること。
アナウンサーとして、ライターとして、講師として、
身につけてきた技術と、
きき脳の考え方を取り入れたコミュニケーションについて
連載して行きたいと思います。

書いてみたこと、発信してみたこと、 それが少しでもどこかで誰かの「なにか」になるならばありがたい限りです。