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「分かる」と「出来る」の違い

塾講師を行っていた時代、この違いが恐ろしく大きいことを知った。

よく先生が「分かりましたか?」と聞くがこれはただの入り口である。
重要なのは知ることではなく、出来るようになることである。

そして、知ることのハードルが低くなっている現代で、
この2つの価値の違いはさらに広がっているように思う。

情報が少ない時代は、知ることに価値があった。
たが、もうそんな時代はとっくに終わり、もはや大抵の情報の触りの部分(入り口にあたる情報)はネットから学習することができる。

故に、「分かる」を「出来る」に成長させないと差別化できない。

よく「腹落ち」という言葉も使うが、これは「分かる」のレベルが上がっただけでまだ「出来る」とは言えない。

では、「出来る」とはどのレベルなのか?

それは、
「自分の言葉で他人に伝えることが出来る状態」ではないかと思う。

他人に伝えるのは本当に理解をしていないと伝わらない。
理解が中途半端な状態で伝えたとしてもそれはうまく伝わらないし、
「あ、この人って実はあんまりよくわかってないんじゃないかな?」
という疑念を抱かせるような状況になってしまう可能性もある。
そんなことになれば、それこそ信頼の失墜になってしまう。

だから、本を読んで学習をして「理解した」はまだ100点満点中30点くらいのレベル。
それを使って、理解を深め、相手に説明ができて、さらにそれを理解してもらえる
ということまで至っている
のであれば、それは自分が「出来る」ものとしての「能力」と扱って良いものと言えるだろう。

ドラッカーの有名な言葉で、
「教えることは学ぶための最高の方法」
というのがあるが、
私の方で今回の内容を踏まえてこの言葉に付け加えるとするなら、
「教えることは学んだことがきちんと理解できているかを正しく知るための最も有効な手段」
ということだと思う。

だからこそ、本当に本当に、「アウトプットこそが大事」と自戒を込めて認識したいと思う。

私は学ぶこと、教えることに対して一生を掛けて関わっていきたいと思うし、他人に伝えるというレベルを少しでも上げていきたいと思う。
これは自分の人生の至上命題としても良いと考えている。

というわけで、

「伝える」ことが「出来る」ために、「分かる」のレベルを高めておかなければならない。
そのためにインプットした内容を必ずアウトプットして、体に沁み渡らせ、他人に説明出来る状態にする。
というのが本当の意味の「出来る」という状態なのではないかと思う。

というのが今回言いたかったことになります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
これからも好き勝手に暑苦しく、楽しくアウトプットさせていただきます!

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