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カンボジアの犬を見て、太宰治『畜犬談』を思い出す

皆さんは「太宰治」という作者名を耳にしたとき、どんな作品を連想しますか?

代表作とも言える『人間失格』はとても有名ですし、『走れメロス』は中学校の国語の教科書でお馴染みですね。もしくは『斜陽』を挙げる方もいらっしゃるかもしれません。

わたしも勿論上記のような作品を頭に思い浮かべますが、実はもう一つ忘れられない作品があります。それが『畜犬談』です。

「青空文庫」で全文を読むことができるので、興味のある方は冒頭部分だけでもぜひ読んでみてください。短編なのですべて読んでも、そんなに時間はかからないと思います。


この『畜犬談』をはじめて読んだのは2016年3月のこと。マレー鉄道に乗って、ペナンからバンコクに向かう途中に読みました。

持って行った一冊には太宰の短編がいくつも収録されていたのですが、なぜだか『畜犬談』だけが妙に心に残っています。


そしてつい先日、カンボジアで犬に絡まれたときに、再びこの『畜犬談』の冒頭部分が頭をよぎりました。

私は、犬については自信がある。いつの日か、かならず喰いつかれるであろうという自信である。私は、きっと噛まれるにちがいない。自信があるのである。よくぞ、きょうまで喰いつかれもせず無事に過してきたものだと不思議な気さえしているのである。

太宰治『畜犬談 ―伊馬鵜平君に与える―』

そうか、太宰も自分と同じような「自信」を持っていたのか、と妙な親近感を抱きました。

諸君、犬は猛獣である。馬を斃し、たまさかには獅子と戦ってさえこれを征服するとかいうではないか。さもありなんと私はひとり淋しく首肯しているのだ。あの犬の、鋭い牙を見るがよい。ただものではない。いまは、あのように街路で無心のふうを装い、とるに足らぬもののごとくみずから卑下して、芥箱を覗きまわったりなどしてみせているが、もともと馬を斃すほどの猛獣である。いつなんどき、怒り狂い、その本性を暴露するか、わかったものではない。

太宰治『畜犬談 ―伊馬鵜平君に与える―』

わたしもこの文章を読んだときに、ひとり激しく首肯していました。たしかに犬は可愛いけれど、強い生き物でもあるんですよね。

もしかすると動物愛好家の方々が『畜犬談』を読むと「けしからん」「度を過ぎている」と思う部分もあるかもしれませんが(そもそもタイトルからして……)、時代背景やらを加味すると致し方ない部分もあるかなと思います。狂犬病のリスクも高かったでしょうし、今の「ペット」という感覚とはかなり違うはずです。

今のカンボジアの犬たちの姿を見ていると、昔の日本もこんな感じだったのかなぁ……と既視感をどことなく覚えます。

犬に対する真剣な考察、そして悲哀を交えたユーモアがこの作品に魅力を与えているのではないでしょうか。


それから、この『畜犬談』の魅力のもう一つは、文章に滲み出る太宰の人柄だと思っています。

「太宰治」というイメージ像はある程度世間一般で固定化されているような気がしますが、『畜犬談』では人情味ある太宰の姿が感じられるのが魅力です。ところどころ親近感を覚える箇所があります。

私はじつに苦心をした。できることなら、すね当、こて当、かぶとをかぶって街を歩きたく思ったのである。けれども、そのような姿は、いかにも異様であり、風紀上からいっても、けっして許されるものではないのだから、私は別の手段をとらなければならぬ。私は、まじめに、真剣に、対策を考えた。

太宰治『畜犬談 ―伊馬鵜平君に与える―』

本人はいたって真剣でしょうが、ユーモアが感じられて、個人的には思わず失笑してしまった部分です。そして、わたしも風紀上許されるなら甲冑を着て歩きたいくらいです(カンボジアでは暑くて無理そう)。


そして、『畜犬談』では犬に対する太宰の見解がこれでもかと綴られています。よっぽど犬が苦手なんだな、ということが伝わってきますね。「懶惰無頼の腐りはてたいやしい根性」なんて、わたしには思いつかないほどの罵詈雑言です笑。

日に十里を楽々と走破しうる健脚を有し、獅子をも斃す白光鋭利の牙を持ちながら、懶惰無頼の腐りはてたいやしい根性をはばからず発揮し、一片の矜持なく、てもなく人間界に屈服し、隷属し、同族互いに敵視して、顔つきあわせると吠えあい、噛みあい、もって人間の御機嫌をとり結ぼうと努めている。

雀を見よ。何ひとつ武器を持たぬ繊弱の小禽ながら、自由を確保し、人間界とはまったく別個の小社会を営み、同類相親しみ、欣然日々の貧しい生活を歌い楽しんでいるではないか。思えば、思うほど、犬は不潔だ。犬はいやだ。なんだか自分に似ているところさえあるような気がして、いよいよ、いやだ。たまらないのである。その犬が、私を特に好んで、尾を振って親愛の情を表明してくるに及んでは、狼狽とも、無念とも、なんとも、いいようがない。

太宰治『畜犬談 ―伊馬鵜平君に与える―』

そして、犬とは対照的に雀に与えられる賞賛の言葉。雀と犬を比べたこともありませんでしたが、たしかに雀たちは慎ましく穏やかな生活を送っているように見えますね(少なくとも人間の立場からは)。



さて、この『畜犬談』は後半からが面白いところ。ひょんなことから太宰の家で黒い子犬を飼うことになります。

小犬は、たちまち私の内心畏怖の情を見抜き、それにつけこみ、ずうずうしくもそれから、ずるずる私の家に住みこんでしまった。そうしてこの犬は、三月、四月、五月、六、七、八、そろそろ秋風吹きはじめてきた現在にいたるまで、私の家にいるのである。私は、この犬には、幾度泣かされたかわからない。どうにも始末ができないのである。私はしかたなく、この犬を、ポチなどと呼んでいるのであるが、半年もともに住んでいながら、いまだに私は、このポチを、一家のものとは思えない。他人の気がするのである。

太宰治『畜犬談 ―伊馬鵜平君に与える―』

「ポチ」と呼びつつも、なかなか犬の存在を受け入れられない太宰ですが、東京への引っ越しが決まりポチを一緒に連れて行くかどうかと妻と話し合います。さらにポチは皮膚病まで発症してしまい……というところでラストの場面へと向かっていきます。

気になった方はぜひ「青空文庫」で読んでみてください。


一応この小説(随筆?)の「私」は太宰治本人だと考えて間違いなさそうですが、フィクションが加えられている可能性もあります。ただ、そうした事情を差し引いたとしても、太宰の人情味が感じられるエピソードになっています。


犬は怖い、犬は嫌い……という気持ちを抱きながらも、どこか憎みきれないのが犬の魅力なのかもしれませんね。敵にすれば恐ろしいけれど、懐かれれば嬉しいものです笑。


当然ながら、『畜犬談』の舞台は昭和初期の日本ですが、久しぶりにこの作品を読み返しながら、わたしはカンボジアの日常風景を重ねていました。

今の日本では、道端に首輪をつけていない犬が寝そべっていることは、まずあり得ませんよね。でも、カンボジアはシェムリアップのような「街」であっても、至る所に犬がいます。野良犬なのか、放し飼いの犬なのか区別がつきません。

『畜犬談』を読みながら、「昔の日本もこんな感じだったのかな」と想像を膨らませました。


犬がお好きな方も、そうでない方も、よかったらぜひ『畜犬談』を読んでみてください。



みな

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