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我が家に伝わる西南戦争の言い伝えについて

私の高祖父である吉岡寅吉について、私の祖父である吉岡楠雄は1997年に機関誌『悠々』でこのような投稿をしている。
「寅吉は僕の母梅野の父です。彼が往生したのは昭和10年7月で享年78歳でした。これからの話は、母から聞いたことをもとに自分の推理も含めて書いたものです。
寅吉は1857年(安政4年)今の鹿児島県に生まれました。1877年(明示10)、寅吉数え年20歳のとき西南の役がありました。その時彼は西郷隆盛の部下であったようです。当時、西郷方の最後はほとんど自害したと言われていますが、10代の若者は自害を許されず、日本の情勢が鎮まるまで遠くへ逃れ、未来に備えてじっと身を隠して生き延びなければならなかったようです。
寅吉は高知県に逃れてから10数年もの間、易者に化けて転々と県下各地を流浪していました。丁度、高岡郡佐川町に来た時、天理協会にいた、さくと夫婦になりました。しかし二人は、その後も一定の住居を持たず、官警の目の手薄な県西部を中心に行商と易者で流浪しました。
旅の中で、二人は4人の女の子を産みましたが、追われる身のために行く先々で里親を頼み子を預けていきました。不確かなものですが、その内3人は佐川町、大月町鉾土、同じく大浦に預けられました。他の一人は預け先不明です。僕は、自分の母以外は明確な居場所、姓名、生死のすべて分からないままでした。母も自分の姉妹に会いたかったでしょうが、出来ませんでした。二人は寅吉の過去と子どもたちのことについて一切語らなかったようです。ただ、昭和になって、さくが母に少しずつ打ち明けたようです。それほど祖父母は官警の目に怯えていたのでしょう。
ある時、佐川に預けられた人だと思いますが、誰に聞いたのでしょうか、はるばる親を探して養老まで来たのです。長い長い道中どんなにか辛かったことでしょう、でも、親に会いたい一心が彼女の勇気を奮い立たせたのでしょう。しかし、疲れ果てた我が子を家にも入れず追い返したということでした。これ程残酷なことがあるでしょうか。子供は泣く泣く養老から出て行ったのでした。
おそらく、寅吉もさくも断腸の思いだったろうと察します。主君の命令に命をかけ。ひたすら身を隠す生活がさせた、まさに地獄絵のように思われてなりません。(後略)」

ちょうど大河ドラマ「西郷どん」が放送されていた2018年のことだったと思う。高知県土佐清水市にある祖父母宅を訪ねた際に、祖父からこの話を聞いた。
ぜひこの話の裏付けがとれないかと思い、その年の3月に西郷南州顕彰館を訪ねた。だが、西郷方についた人物で、生存者の記録というのは、逮捕された方を除くと極めて少ないということだった。
その後、就職して調査の時間がなかったのだが、2021年3月に転職前に少し時間ができたので調査を行うことにした。
まず、寅吉が亡くなった高知県土佐清水市に残る戸籍を調べたところ、寅吉は安政5年(1858年)生まれで、祖父の話と大きなずれはない。寅吉の父親の名前は梅太郎、母親の名前はミツ。高知県土佐清水市の戸籍の前は、「宮崎県東諸県郡本荘村字森永」(現宮崎県国富町字森永)となっていた。この地域は、江戸時代は天領だったが、その後宮崎県を経て鹿児島県に併合された時期もあったため、出身に関する記述もあながち間違っているわけではないようだ。だが、戸籍でわかることはここまで。そこで、1泊2日の弾丸で宮崎県国富町を訪ねることにした。
まず、国富町総合文化会館の資料などから、西南戦争前後にこの地域の人々がどのような動きをしていたかを追った。
国富町は西南戦争が始まった1877年にはすでに鹿児島県に併合されていた。宮崎県の他の地域で都城隊・福島隊・飫肥隊・佐土原隊・高鍋隊・延岡隊などが結成されて西郷軍に参加したのと同様に、この国富周辺の人々も西郷軍に参加した方々が少なくなかったようだ。また、劣勢となった西郷軍が巻き返しを図るために兵士の徴募を行っていたことも記録に残っており、徴募に応じなかった者に対しては敵とみなして処分するという強制的なものだったという。この際に、国富町では本庄隊が結成されており、参加した47名の名簿が残っていた。他にも100名ほどの国富町から従軍した方々の名前の記録が残っていたが、残念ながら寅吉の名前はなかった。名前が残っていない従軍した方も少なくないとのことだった。
西南戦争終盤には、国富町でも西郷軍と官軍の戦闘が起きており、寅吉の本籍地であった森永地区でも大きな戦いがあった記録が残っている。寅吉も志願兵として、あるいは徴募兵として西郷軍に参加したのだろうか。
次に、寅吉の本籍地である森永地区を訪ねた。大乗寺の住職にご相談したところ、過去の葬儀の記録を調べてくださった。大乗寺は森永地区唯一のお寺で、この地域の方々のお墓も基本的には大乗寺内の墓地だけなので、寅吉の両親や親戚の記録や墓が残っているのではと思ったのだ。
だが、残念ながら吉岡姓の記録は残っていなかった。地域の古老にも住職からお話を聞いていただいたのだが、やはり吉岡姓の方が森永地区に住んでいた記憶はないとのことだった。もしかしたら土方(定住せずに土木工事に従事する人)で吉岡という名前の人がいたかもしれないとのことだった。
国富町では、八代地区に現在でも吉岡姓が残っているため、もしかしたら親戚がそちらにいるかもしれないという話だったが、現地でもわかるのはここまでであった。

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