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【ひよわな校長の処方箋70】障害はこちらにある

 学校では誰もが安心して生活し、授業を受ける権利がある。
 例えば教室で、つい立ち上がって歩き回ってしまう子がいたとする。みんなが注意する。教師も注意する。それが授業の邪魔になっている。そうなると、授業を安心して受ける権利が侵害されてしまう。では、その子を外に出せばいいかというと、そうすると今度はその子の授業を受ける権利が侵害されてしまう。
 その子には別室で学習してもらうという方法もあるが、その前に考えなくてはいけないことがある。なぜその子は授業の邪魔をしてしまうのかということだ。
 この場合、問題にされるのがその子の障害である。その子はつい立ち上がって歩き回ってしまう多動の障害がある。その結果、授業の邪魔になってみんなが困るのだ。
 しかしここで見方を変えてみると、みんなは困っているが、その子は困っていないことに気づく。その子にとって立ち上がって歩き回るのは自然な行動なのだ。授業を邪魔しているという意識はない。困ることがあるとすれば、動き回ったときにみんなに注意されて怒られることが困る。彼にとって動き回ることは何も障害ではない。動き回ることを指摘して注意してくるみんなの言動が障害なのだ。
 そこで、みんなで話し合い、彼が動き回っても注意しないことにしてみる。すると、彼が動き回っていても授業はできる。実は彼の行動は授業の邪魔にはなっていないことに気づく。まあ、最初は彼が視界に入ると気にもなるが、すぐに慣れるものである。
 この学級では、「彼には彼の事情がある」ということが共有されたのだ。これも合理的配慮といえるかもしれない。
 障害について考えるとき、障害はその人にではなく社会の側にあると考えるとうまくいく。
 目が見えないことが障害なのではなく、目が見えないと困ってしまうようになっている社会の方に障害がある。そう考えると、その障害をなくすための具体的な対策が見えてきて行動が始まる。
 教育に関する合理的配慮については、「聴覚過敏の児童生徒のために机・いすの脚に緩衝材をつけて雑音を軽減する」「視覚情報の処理が苦手な児童生徒のために黒板周りの掲示物の情報量を減らす」「意思疎通のために絵や写真カード、ICT機器を活用する」「試験において、別室受験、時間延長、読み上げ機能等の使用を許可する」などがあるが、いずれもこちら側の障害をなくすことを考えている。
 クレームの対応にも似ている。こちらに非があると考えると対話が始まる。

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