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【1000字小説】おかあさん

すべての窓の外に夕陽が咲いているような、うつくしい夕方だった。
ぼくが学校から帰ると、母が泣いていた。

「どうしたの……?おかあさん」
「ごめんね。仕事を、もらえなくなってしまったの」
「だいじょうぶだよ、ぼくがいるから」

母が泣いていても、食卓のうえの空の花瓶と、ティッシュボックスはいつもと変わらないようすだった。ぼくはそれを、不思議に思った。

「ぼくが、いるから」
ぼくはもういちど言った。
分かっていた。ぼくにそうして心配させることが、母のこころを悲しませることを。
「ごめんね、わたし、あなたひとりをまもることもできない」

母は、ほかのひとに比べてすこし、要領がわるかった。
何か仕事をすればミスを連続してしまうし、言われたことを直すのにも時間がかかった。
会話の受け答えも自分のペースや世界観でしてしまうことがおおく、その些細なずれは、社会のなかで、関わる人を苛立たせた。

職場で母は父と出会い、結婚をし、ぼくを産んで10年間専業主婦でいたが、その後離婚をした。離婚の際の口論のなかで、父は母と結婚した理由について、「女性であればだれでもいいと思った」からだと言い放った。

離婚後、父からの養育費は十分ではなく、ぼくを育てるために母はもういちどはたらきに出なくてはならなかった。しかし、母の独特の人間性と、仕事を辞めてからの10年のブランクのために、社会は母を受け入れなかった。

母は結局、正社員ではなく委託社員として、ある会社の雑務を受け入れることになった。数年間はたらいたが、しかし、会社の人間関係がうまくいかず精神的な病気にかかり、会社を休みがちになった。
そしていま、母は契約を解除された。

「おかあさんは、おかあさんになれなくてごめんね」
母はぼくに謝りつづけた。ぼくは、どうしてそんなに謝るのだろうと思った。世間の基準はしらないけれど、母はぼくに、十分すぎる毎日の幸せを与えてくれていた。そしてそのことは、ぼくも、母も、知っているはずなのにな、と思った。

「そんなこと、ないよ」
「あなたにだけは、おかあさん、弱いところを見せたくなかったのにね」

それを聞いて、ぼくは何か言葉を返さなきゃ、母への愛を見せなきゃと思った。そう思った瞬間、それはとても簡単なことだと感じた。
母に対しての感情や言葉をあらわすのは、ただこころを見せればいいだけだったからだった。

「ぼくはおかあさんのことを、つよいからすきだと思ったことは一度もないよ。おかあさんはおかあさんだから、すきなんだよ」
「その、あなたの優しさ、だいすきよ」

母はまだ涙を流して泣いていたが、ぼくは、不思議と安らぎをおぼえていた。母への優しいことばを本心から言えたこと、母を支えられるような男に育ったこと、もちろん、母にその優しさを褒められたこと。

ぼくは自分が歩んでいる道を、合っている、と感じた。
それはとても満ち足りた気分になった。
そして、母に育てられてよかったとほんとうに思った。

すべての窓の外に夕陽が咲いているような、ほんとうに、うつくしい夕方だった。

読んでくださる方がまいにち増えていて、作者として、とてもしあわせです。 サポートされたお金は、書籍代に充てたいと思います。