見出し画像

シェアハウス・comma 賀島 実紀編

この作品は文芸誌・文活のリレー小説シリーズ『シェアハウス・comma』の第5話です。シリーズを通して読みたい方はこちらのマガジンをご覧ください。

ひたすらプログラミングをしていると、きっと音楽を奏でるひともこんな気分なんだろうなと感じる。キーボードにばらばらに並んでいる、"W"だとか"H"だとか"control"だとかの記号を、コードのバランスをくずさないように、ていねいに打ち込んでいく。考えるでもなく、考えないでもなく、何百回もつくってきた朝食をまた今朝もつくるかのように、ただ手だけを動かす。そのときわたしは多幸感につつまれているから、わたしは、"コードとつながったわたし"をずっと続けていたくなる……それなのに。

「ねえ実紀みのり。こっちに来て」

とんでもなくやさしい声で、いつも桜はわたしを呼びつけるから、いままで作業に集中していたわたしのこころが、ふと現実に向かう。それがわたしは、プログラマーとしても、女としてもくやしくて、無視してやろうと思うけれど、結局あらがえないから、せめて、そっけなくこたえてみる。

「いま忙しいのだけれど。あとにして」

「ちょっとだけ。だめかな」

「……どうしたのよ」

「いま観ているドラマのシーンを、実紀にも観せたいんだよ。だから、こっちに来て」

桜の声から、きちんとわたしを向いて、話しかけていることがわかる。(きっと彼は、シャツを袖まくりした腕を、ソファの背もたれのところにしごく自然にかけて、半身をひねっている。)わたしはわざとふりかえらずに、目の前のディスプレイに向かってしゃべりつづける。

「わたし、ドラマをみるなら最初からきちんとみて、人間関係やストーリーの流れを確認しないと楽しめないタイプなんだけど」

「でも、ぼくはきみと一緒にみたいんだ」

それは反論になっているようで、なっていないけれど、あまりにもすなおすぎる台詞だったから、わたしは一瞬たじろいでしまった。

「きちんと、作者が考えてくれた設計を把握したいの。ものごとって、すべて構造が大事でしょう?」

「それでいうと、きみをがっかりさせるようだけれど、いまぼくが観ているドラマは、はじめからみると、とってもつまらない」

桜は、すべてのことばを――たとえば "つまらない" も――やさしく放っていく。

「物語の起伏が単調すぎるし、台詞は青臭い。キャラクターも魅力にかける。だから、きみはいまこのシーンだけを、ぼくといっしょに楽しむのがいいんじゃない?」

桜は口がうまい。なめらかに、ただしい論理にのっとって、わたしにいろんなことを誘う。ドラマのシーンを一緒にみることや、外であそんでいる子どもの声を聞くこと。餃子をつつむことや、そのほかいろんな、わたしが "人生のむだ" だと思っていることを、いろいろと。

わたしはプログラマーだから。その誘いかたがただしければ、わたしはしたがうしかない。どこか桜にコントロールされているみたい。わたしはワークチェアをくるん、とうしろにまわし、ソファに座っている桜越しに、テレビが観られる姿勢に向きなおった。

***

桜は、わたしが短大を卒業して入った会社の、元同期だ。会社に入ったのはおなじタイミングだけれど、彼は4年生の大学を出ていて、かつ留学のために1年卒業を遅らせているから、歳はみっつ上。おなじプロジェクトに配属されたことで、知り合った。

彼とわたしは、まったく似ていない。わたしはひとりでずっと家でPCに向いているのがすきだけれど、彼は交友関係がひろくてよくでかけるタイプ。会社に入った理由も、わたしは適当に技術者への待遇がいい企業をえらんだのに、彼は "会社のビジョンに共感" して、"自分のスキルを高められそう" だから、えらんだらしい。

桜と一緒に進めたプロジェクトが成功したお祝いの飲み会で隣になって、お互いがまったく似てないことを確認しあって、笑いあった。(まったく似てないことがわかると、ひとはどうして仲良くなれるんだろう?)それ以来、彼はわたしが社内で気をゆるせる、唯一といっていい存在になったのだった。

それから5年が経ち、わたしは会社を辞め、フリーランスのプログラマーとして独立。彼はその会社で、最年少のプロジェクト・マネージャーとなった。以来、会社をやめてからも親交はつづいている――というよりは、彼がわたしの部屋に、頻繁に押しかけてくることで関係性が成り立っている。

桜がわたしの部屋にくる目的はまちまちだ。旅行の帰りにおみやげを手渡すだけのときもあれば、テレビゲームを持ってきて、勝手に部屋のテレビにつないで一日中あそんでいるときもある。わたしは基本的にそんな桜をほっぽって、プログラミングをしているけれど、たまに一緒にしゃべったり、テレビゲームをしたりして過ごすときもある。ただし、友達のしきりを越えたことはない。

わたしとしては、どんな過ごしかたをするのも、別にいいのだけれど、こちらにもこころの準備というものがあるのだから、せめて事前に連絡をしてほしい。それを伝えると桜は「さきに連絡したら、きっと実紀はめんどうくさがって、ことわるにちがいないから」と言う。それは、いつもただしい桜が、たったひとつ、まちがえていること、なのだけれど。

***


『ほっぺにクリームが付いてるよ』

「ここ!」

桜が再生してくれたそのレストランでのシーンでは、頭がもじゃもじゃで冴えない感じの男優に、演技派で知られている顔のきれいな女優が、自分のほほを指さしてクリームが付いているのを教えてあげていた。

「このシーンがどうかしたの。そうとう使い古された表現でとくに感想もわかないわ」

「そう、ベタすぎる。つまりこのドラマがとってもつまらないのは、ここからもわかるわけだけど、問題はそこじゃなくて」

「うん」

「ぼくが言いたいのは、こういうときに、教えてあげるほうがどちらのほほを指しているかで、相手をどう思っているか、わかるんじゃないかなって」

「どういうこと?」

「このシーン、男の左ほほにクリームがついているんだけど、教えてあげてる女の子も自分の左ほほを指してる」

たしかに、一時停止されたシーンをみると、女優が指しているのは自分の左ほほだった。

「それがどうかしたの?」

「ふつうはさ、相手にとって自分の顔は鏡あわせになっているから、自分は右ほほを指してあげるじゃない?」

わたしは、対面している相手の左ほほにクリームが付いていることを想像しながら、自分の右ほほを、つん、とさしてみる。

「たしかにそうかも」

「きっと、左ほほを指すひとって、"相手が自分のなかにいる"ひとなんだよ」

「"相手が自分のなかにいる"?」

「そう、もう自分のほほにクリームが付いていると思っちゃうくらい、相手を自分のなかに住まわせているから、左ほほを指さす。この女優さんは、演技のなかで、ほんとうに相手に恋をしているんじゃないかな」

そうであるような気もするし、そうでないような気もする。コンピュータのなかなら、うまくコードを書けばたいていのことが定義できるのに、この世のなかには、0なのか、1なのかが決まらないものごとが多すぎて、わたしはすこし嫌になってしまう。

なんだか頭もシロクロしてきたみたいだったから、話題を変えたくて、

「かんがえすぎじゃない?」

と茶化してみたのだけれど、

「かんがえすぎかもね、でも、実紀はどう思う?」

と打ち返されて、逃してくれなかった。

しかたないから、わたしはいつになくいっしょうけんめいに考えて、

「あなたから見て左、って教えてあげたらいいんじゃないかな」

と言ってみたら、桜は刹那あっけにとられたような表情をしたあとに、くくく、とふくみ笑いをしだして、

「たしかに、それで解決だね。」

と、今度はわたしに向かって、やさしく、笑いかけてくれる。そしてやっと、この話題からわたしを開放してくれた。でも。

「ねえ実紀、マフィンを焼いてきたから、一緒にたべない?」

……今日も仕事は、まったくすすみそうにない。

***

「サーヤ、クレームがあります」

「また桜さんですかあ?」

そうやって、めんどうくさそう(!)な調子でこたえるのは、サーヤこと白洲彩絢。わたしが住んでいるシェアハウス「comma」の管理人だ。サーヤは高校を卒業した春から、ここの管理人になった19歳の女の子。きちんとしていて、頭がいいのだけれど、さいきん、どこかわたしを軽くあつかっている気がする。

午後10時。桜は知り合いと飲みに行くとかで、とっくに帰っていた。サーヤはダイニングテーブルにひとり座って、紅茶を飲んでいたようだ。彼女は地味な見ためでも姿勢がいいから、東欧風の刺繍が入ったペンダントライトのほのかな灯りのもとで、すこしおとなびて見える。ライトの真下で、アンティークカップと、お菓子でも置いていたらしい金縁のお皿が、べっこう飴のかけらのような小粒の光を反射していた。

「由々しき事態なんです。彼がずかずかわたしの部屋に入り込んでは、仕事を邪魔してきます」

「桜さん、いい人じゃないですか。マフィンもおいしかったし」

金縁のお皿には、どうやら桜からおすそわけされたマフィンが載っていたようだ。わたしにだけつくってきたわけではなかったのかと知って、ややきぶんがわるい。

「なんてこと、食べ物で手懐けたのね」

「ひどい、"手懐ける" なんてあたし動物みたいー」

からからとサーヤがわらう。この子、春にはじめてシェアハウスにきたときより、あかるくなったな。

「とにかく、集中できないの。調べたら、"正当な理由がないのに、人の住居もしくは人の看守する邸宅、建造物もしくは艦船に侵入した者"には不法侵入罪があてはまるそうですよ」

「不法侵入罪って、船にも使えるんですね」

「ちゃんときいて」

サーヤが、またからからとわらう。わたしは、クレームをつづけた。

「とにかく、仕事にならないから、来てほしくないんです」

すこし空気がかわった。サーヤが、もしかして本気なのか、とでも言いたげな顔をして、ややきょとんとした顔でこちらを見つめていた。そして、眉を寄せて、こんどは病気の子どもを看病する母親のような、心配そうな表情をして言った。

「だって、実紀さん、桜さんに来てほしくないどころか……」

その喋り方があまりにも同情じみていたから、ああなんだか、すべてばれているんだなとわかった。ひとに同情されたことって、今までの人生で、わたしはあまりなかったから、どうしていいかわからない。そのときサーヤとわたしは、とつじょ生まれた、年齢を逆転させた「母と子」のようなおたがいの役割に、おたがいに困っているようだった。そして、

「ねえサーヤ、どうしたら、桜にすきになってもらえるとおもう?」

気づいたら、わたしはそんなことを聞いていた。(どうしてこんなことを聞いてしまったんだろう?)そう、プログラミングをしているときみたいに、わたしにとってはしごく自然な言語で口をついて出たそのことばは、いままで自分のなかのどこにしまわれていたのかわからなかった。

「え、ほんとうですか?」

「ほんとう?」

「気づいてないってこと……?」

なにが起きているか、サーヤもわからないようだった。「天然?」サーヤがつぶやく。「てんねん?」わたしもつぶやく。

なんだか調子が狂わされっぱなし。まったくこの孫といい理津子さんといい、白洲家の人間は、わたしの調子をいつも狂わせてくるのだから、ほんとうにこまる。

***

わたしがこのシェアハウス・commaに住みはじめたのは、シェアハウスのオーナーで、サーヤの祖母である理津子さんとの出会いがきっかけだ。3年前、彼女が経営にかかわるレストランのホームページを、わたしがつくったのだ。仕事を進めているときは、ずっと電子メールでやり取りしていたので、オープン前のレストランで、理津子さんにホームページを直接プレゼンしたのが、お互いはじめての対面だった。

「あら、この、ボタンがひゅうっって動くところ、なんだかいいわね」

「このアニメーションの加速度の計算には3次ベジェ曲線を使っているんです。点の座標だけで曲線を数学的に定義できるから、自然な速度が出せます。数学をつかえば、人が何千年もの歴史で積み上げてきたものを援用できるから、うつくしいものがつくれるんですよ」

目に見えるページの裏側には、プログラムに込められた哲学がある。いままでのクライアントは、それを解説すれば、どんな人でも感心して目をまるくしていた。しかし、理津子さんはちがった。どこかたのしそうに、わらいはじめたのだ。さらには、

「ふふ、あなたはなんでもわかったつもりでいるのねえ。きっとわたしたち、気が合わないわ」

なんてことを言い出したのだ。むっとした私は、言い返す。なんだかすこしだけ、プログラムを軽んじられた気もしたから。

「なんでもわかっているとは言いませんが、プログラムについてはわかっているつもりです。わたしたちは対等なビジネス仲間です。上から目線でものを言うのはやめてください」

理津子さんは笑みをたたえたまま、直接それには答えずに。

「あなた、わたしが大家をやっているシェアハウスにいらっしゃいな。きっとあなたにわかっていなかったことが、わかるわよ」

理津子さんは、あきらかにこの状況をたのしんでいるようだった。

「わかりました、入居します」

売りことばに買いことば。こうなってはあとにはひけない。わたしはその申し出を受けた。それに、"わかっていなかったことが、わかる" はたまたま、わたしにとって、いっとう魅力的な口説き文句でもあった。

「家賃はいくらですか」

「5万円と、毎月わたしになにか贈りものをしてちょうだい」

「めんどうですね。家賃を2倍払うので、贈りものはなしにしてもらえませんか」

「だめよ、ばかね。そういうことじゃないもの」

たぶんわたし、そのとき生まれてはじめてひとから「ばか」と言われたかもしれない。

「わかりました、じゃあなにかします。この街で5万円は、ずいぶんやすいですね。1年分、さきに振り込みますから、口座番号を教えてください」

「やっぱりわかってないわねぇ、一月づつ、やり取りするのがいいんじゃない。」

「振込手数料かかりますよ」

「お金に余裕がおありではなくって?」

ああいえばこういう。ぷちんとまたいきそうだったけれど、ここで怒ったら、そのことがもう負けだと思って、がんばってこらえた。

それ以来、わたしは律儀に一ヶ月に一回、5万円を封筒に入れて渡しに行きつづけている。「理津子さんになにかすてきなものをプレゼントする」というふざけた条件には、私は赤外線スピーカーを使って、毎月シェアハウスのいろんなことを音声で操作できるようにしてみた。

そう、電気を消したり、お風呂をわかしたり、エアコンをつけたり。そんな前時代的な家事は、すべて最適化して、時間をほかのもっと大切なことに使うべきだ。"人生のむだ" は省くに限る。

***

わたしはサーヤに向けて、びしっ、と人差し指を立てた。

「なんですかそれ?」

わたしは得意になって言う。

「いっせんまん」

「いっせんまん」

サーヤがほうけたように繰りかえした。

「一千万円溜めました。もっと溜めて、マンションを一括購入するつもりです。それで、一緒に住む場所を用意して、桜にプロポーズする。ロマンチックでしょう?だから仕事をがんばらなきゃいけなくって、いま彼に仕事を邪魔されるわけにはいかないんです。ですからサーヤ、彼が来たら追い返してください。」

「実紀さん、そりゃあ進展がないはずです……」

「なんで、かんぺきな作戦なのに」

「かんぺきというか、はっきりいって、おばかです」

人生2回目に言われる「ばか」が、まさか1回目の人の孫からだとは。なぜだか今回は、ちょっとだけ気持ちいいような気さえしたのだけれど、いちおう怒ってみせる。

「ばかとはなんですか」

「だってあまりにもより道してるんですもん。実紀さんのやっていることは、近所のスーパーに行くのに、地球の裏側を一周して向かってるようなものです」

そんなふうに見えているのかしら、わたしは。ほかのプログラマーが書いた、"地球の裏側を一周して向かってる"ようなプログラムをふだんばかにしているわたしは、みょうにしんみょうになってしまった。

「……そうならないためには、どうしたらいいんでしょう?」

「それを考えているんですけど、実紀さんのようなひとに伝わるように伝えるのがむずかしくて……」

「そこをなんとか、がんばってください」

「うーん……」

さっき紅茶を飲み終わった姿は気品を感じたのに、いま腕組みしながらいっしょうけんめい考えているサーヤはどこかあどけなくて、やっぱり19歳の女の子だった。

「わかった、こうしましょう。とにかく相手をじっくりみるんです。そうしたら、いろんなことがわかるでしょう?今日はこんな服着てるんだ、とか、ちょっと顔がつかれてるかもな、とか、カバンが大きいけど、今日は荷物が大きくなる用事があったのかなとか」

「なるほど。対象を観察してイシュー化するんですね」

「たぶんそんなかんじ」

「流してないですか?」

「そうすると、相手の存在が自分のなかでどんどん大きくなっていくから、じわぁって好きな気持ちが出てくるでしょ?あぁ好きだなぁって。そしたら、自分の服装や仕草がどんどん自然にかわいくなってくるんですよ。それで最後はアタぁっく!!です!」

アタぁっく!!のところでサーヤは、バレーボールを上から打ち付けるジェスチャーをした。

「そんなことで、ほんとうにうまくいくのでしょうか」

「ぜったい大丈夫ですよ!がんばりましょう!」

サーヤが、にっこり笑いかけてくれる。ためしにその表情をじっくりみてみたら、わたしもなんだかうれしくなってきて、がらにもなく笑顔をサーヤに向けてしまった。さっそくサーヤの教えの効果が出たのかもしれない。

それからしばらく、桜にどんなアプローチをするか、ふたりで作戦会議をした。ああ、いまわたし恋愛相談してる、なんて客観視してしまって、わたしは自分でおもしろくなってしまう。

やがて話が一段落ついたところで、サーヤがぽつりと言い出した。

「でもなんだか、あたし自信が出てきました。」

「自信?」

「実紀さんのこと、桜さんから聞いていて。プログラマーとして天才と呼ばれてることとか、外国語が話せることとか、数学の論文で賞を取られていることとか。わたしみたいな、受験に失敗した頭の出来が悪い人間は、実紀さんみたいな頭のいい人に一生かなわないんだろうなって思ってたんです」

すきま風が入っているわけでもないのに、ペンダントライトの光が、かすかにゆらいだ、ような気がした。

「それでも、教えられることって、なんでもあるものなんだなあ。誰かの役に立つって、けっこう、ちいさいことなのかも」

さっきまでからかい気味の目線を向けていたサーヤは、いまははすこし目を伏せて、自分と語っているようだった。

わたしはせいいっぱい、ことばをつむぐ。

「うまくいえないですけれど、なにかのレベルが低いからって、劣っていると感じる必要はないと思いますよ。たとえばほら、28と100を比べたときに、28は100よりちいさい数だけど、約数の和が自身の数になる、完全数なわけだし」

「……それは……よくわからないけれど」

サーヤはこちらに向き直って、笑った。わたしも自然と、笑いかえす。

「いまのはちがうかなって、わたしにもわかりました」

***

いつもどおりにマフィンを焼いてきてくれた桜と、部屋で一緒にお茶をしていた。

わたしは、マフィンをたべる桜のことを、じっくり、みてみた。

みじかくきりそろえられた爪はぴかぴかで、ピンクの面積がちいさい。ゆびは細くて、でも表面の質感がごわごわしているから、料理をつくるひとのゆびなんだと、わかる。まくられたシャツから出た腕はすじばっていて、なぞってみたくなるような、すこしでこぼこしたフォルム。女のひとみたいな、華奢な撫で肩にかかっているトートバッグのひもは、そういえばいつもずり落ちているっけ。首がちょっと焼けているのは、日焼け止めを首に塗り忘れたから?いったいどこに出かけたの?

そうやって、じっくりみていたら。

桜の左ほほに、ちいさなマフィンのかすが付いていることに、気づく。

しばらくそのままにさせておいて、ほほにかすが付いている桜の顔を、たっぷりとたのしんだのちに。

わたしは。

「桜、ついてるよ」

そう言って、自分のほほを、つん、とゆびさした。



この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』2022年5月号に寄稿されています。今月は連載・連作2作品と、ゲスト作家による短編作品の小説3作品を中心に、毎週さまざまなコンテンツを投稿していきます。投稿スケジュールの確認と、公開済み作品は、以下のページからごらんください。

ここから先は

0字
このマガジンを登録いただくと、月にいちど、メールとnoteで文芸誌がとどきます。

noteの小説家たちで、毎月小説を持ち寄ってつくる文芸誌です。生活のなかの一幕を小説にして、おとどけします。▼価格は390円。コーヒー1杯…

読んでくださる方がまいにち増えていて、作者として、とてもしあわせです。 サポートされたお金は、書籍代に充てたいと思います。