クリスティアーノやリオと同じピラミッドの中で生き続ける
海外でサッカーをプレーすること、今年で5シーズン目。
世界中のフットボーラーたちのピラミッドがあるとすれば、頂点付近にはクリスティアーノやリオが居て、俺は底辺付近に位置する存在なのかもしれない。
だけど、そんな俺でもサッカーというスポーツを職業として生活を営んでおり、自分自身に誇りを持ってプロサッカー選手を全うしている。
プロの世界というのは、どんなに真面目に練習に取り組もうが、どんなに日々の生活で摂生しようが、評価されるのは試合での結果のみ。
サッカーの試合に与えられた時間は、1試合あたりたったの90分。
与えられた短い時間の中で、結果を残すために、人生の全てを懸けて戦う。
ピッチの上で結果を残せなければ、自分の明日は保障されていない。
とてもシビアな世界だ。
自分のせいで試合に負ければ、重悪な犯罪者のように扱われ、容赦なく怒号が飛ぶ。
最悪、その場で「さようなら」を言い渡され、チームとの契約が終わる可能性も多いに有り得る。
逆に、結果を残した時の賞賛のされ方は何事にも変えがたい。
まるで、その街の英雄のように扱われる。
ファンやサポーターをはじめ、オーナーや監督、チームメートや家族…
とても多くの人間から感謝されるし、時には1ゴールだけで大金が動くこともある。
俺は、このスリリングなフットボールの世界でプロとして生きることを、子供の頃から夢見ていた。
それが、自分の人生で一番やりたいこと。
今はピラミッドの底辺付近の選手かもしれないが、人生で一番やりたいことを実現できているので、俺の人生はとても幸せな人生なんだと思う。
しかし、5年前の俺はこのピラミッド内に存在しない者だった。
2012年、大学を卒業して一般企業に就職した。
世間で言うところの、サラリーマンというヤツになった。
前年までは、関東学院大学の体育会サッカー部に所属していた。
”大学を卒業後する時にサッカーを続けれない者は就職しなければならない”
このように言われたことは一切無かったけど、周囲の大人たちの雰囲気が、そう自分に語りかけていた。
不幸中の幸いなのか、怪我のリハビリ期間が長かった俺は、その時間を利用して就職活動をしていた。
1人暮らしをきっかけに、インテリアや住宅デザインに興味を持っていたので、住宅業界を中心に就職先を探した。
しかし、リーマンショックで就職氷河期の時代。
1日3件のアポイントは当たり前で、スケジュール帳は書き慣れない会社の名前で埋まっている。
そんな中、東日本大震災が直撃し、就活スケジュールは大狂い。
交通ダイヤも大きく乱れ、面接に行くだけでも一苦労。
面接に行けば、圧迫面接でメンタル状態がおかしくなりそうになっても、落ち込む暇は無く次の会社の面接へ。
大好きなサッカーができないストレスと、就職活動のストレス。
「あ゛ぁーーー!!!」という自分の叫び声で、夜中に目が覚める日々。
それでも、大学卒業時に就職先が決まっていなければ、落ちこぼれのレッテルを世間から貼られるのが嫌で、就職活動に全力を注いだ。
結果、東京に本社を置く住宅リフォーム会社から俺は内定をもらった。
その会社から内定をもらった後は、就職活動を辞めた。
落ちこぼれのレッテルは貼られなくて済むし、北海道に住んでいる家族は「これで一安心だね!」と喜んでいたから。
そして何よりも、大学生活ラスト1年は大好きなサッカーと真剣に向き合おうと決めた。
大学3年の終了時、卒業に必要な全ての単位を取り終えていた俺は、1日24時間の全てを自分の好きなように使える生活を手入れていた。
だから、学生生活の最後ぐらいは自分の好きなことに全力を注ごうと思った。
しかし現実は、怪我→リハビリ→復帰→怪我→リハビリ→復帰→怪我…
このサイクルにはまったまま、大学生活は終了した。
最終的に、全治1年の膝の大怪我を負ってサッカーから引退した。
小さいころから夢見たプロの世界からは、とてつもなくかけ離れた場所でサッカー人生は幕を閉じた。
桜が咲く季節の東京で、サッカーが無い生活がスタートした。
内定をもらった会社に、俺は晴れて入社した。
着慣れないスーツとネクタイを締めて、乗りなれない京王線で通勤をする日々。
入社1年目からすぐに仕事を任せてくれる会社で、正直とても忙しかった。
最近は偉い政治家の人達が「働き方改革!」と、しきりに叫んでいるらしいが、当時はそんなことお構いなし。
1人暮らしのアパートには、寝るためだけに帰ってくるような生活。
この生活があと40年近くも続くと思うと、生きている心地がしなかった。
それでも、職場の人たちはとても暖かくて、何か困ったことがあれば皆すぐに助けてくれる環境だった。
だけど、サッカーが無い生活は俺にとって刺激が足りなかった。
毎日朝から夜遅くまで働いていて、隙間無く予定は詰まっているのに、心の隙間は埋まっていない感覚…
そして、サラリーマン生活がスタートして約4ヶ月。
夏の暑い日に、自分の身体に癌が見つかった。
その当時のことは、以前のノートにも書いた通り。
「発見が遅ければ明日死んでいたかもしれない」と、発した医者の言葉が俺の人生を変えた。
その言葉を聞いて一番最初に頭に浮かんだことは、サッカーをプレーする俺の姿。
それは、自分が子供の頃から理想としていたはずの姿。
そうなりたいと、心から強く思った。
その日を境に、俺は周囲の声を気にすることを辞めた。
自分の心が言うことを信じて生きることを決めた。
サッカーがしたいからサッカーをする。
理由はシンプルで良い。
普段の生活でも”自分の心が言うことを一番大切にする”ことを、自分自身と約束した。
飲み会に行きたい時は行くし、行きたくない時は行かない。
遊びに行きたい時は行くし、行きたくない時は行かない。
好きな人とはとことん付き合うし、気が合わない人とはとことん距離を置く。
やりたい仕事は率先して引き受けるし、絶対に嫌な仕事は理由を言って断る。
生き方を改めてみて、俺はやっと気付いた。
「今までの人生、自分の人生を生きていなかったんだな」と。
周りの皆が大学に進学するから、大学に進学する。
周りの皆が就職活動をするから、就職活動をする。
周りの皆がおしゃれな服を買うから、おしゃれな服を買う。
周りの皆がガラケーからスマホに変えたから、スマホに変える。
周りの皆が受ける授業だから、その授業を受ける。
基準は常に周りの人。
年齢を重ねるにつれて、知らないうちに周囲の目線を気にするようになっていた。
他人の軸に振り回されている人生。
自分の軸で人生を生きていない、最高にダサい俺。
かっこ悪かった。
でも、ダサい生き方を改めてからは、楽しい人生が待っていた。
生き方を改めてから3年後の2015年、俺はモンゴルのピッチでプロサッカー選手になっていた。
自分の気持ちに素直に従った結果、”サラリーマンを辞める”という選択をした。
もちろん自分自身に期待もあったけど、不安や心配もそれ以上に存在した。
そんな時、一歩踏み出す勇気をくれたのは、自分の心。
「プロサッカー選手になりたい!」
子供の頃と何一つ変わらない、純粋な想い。
心の底からなりたいと願っているものを掴むチャンスが目の前にあったとき、人間は自分が想像している以上に大胆になれる生き物のようだ。
周囲の大反対を押し切って、当時25歳だった俺は海を渡った。
そして、全く畑違いの世界に居たはずのクリスティアーノやレオと、一緒のピラミッドで勝負する世界に足を踏み入れた。
サラリーマン時代のように、雇用保険があるわけではない。
明日の自分なんて、何も保障されていない。
自分の居場所は、自分のプレーで掴むしかない。
どんなに監督にゴマをすろうが、どんなにチームメートに気を使おうが、評価されるのはピッチ上での結果のみ。
サラリーマンの世界とは、まるで違う世界。
でも俺は、このスリリングなフットボールの世界でプロとして生きることを、子供の頃から夢見ていた。
それが、自分の人生で一番やりたいこと。
自分の気持ちに、嘘や偽りはひとつも存在しない。
気が付けば、この世界に足を踏み入れてから5シーズン目。
クリスティアーノやリオの姿はまだまだ見当たらない。
やっぱり凄いんだ、きっと。あいつらは。
だけど、こんな俺でもサッカーというスポーツを職業として生活を営んでおり、自分自身に誇りを持ってプロサッカー選手を全うしている。
それはきっと、自分の心が言うことを信じて生きることを実行し続けているから。
1日1日を必死に、真剣に生きる。
どうやら俺には、この生き方が似合っているようだ。
●プロフィール
大津一貴(オオツ カズタカ)
1989年 10月 25日 北海道旭川市出身(その後すぐに札幌市)
札幌市立山の手小学校(山の手サッカー少年団) → 札幌市立琴似中学校(SSS札幌サッカースクール) → 青森山田高校 サッカー部 → 関東学院大学 サッカー部 → 2012 ホームテック株式会社入社(一般サラリーマン、サッカー引退) → 2013-2014 T.F.S.C(東京都リーグ、サッカー再開) → 2015 FC Ulaanbaatar(モンゴル) → 2016 Three Kings United(ニュージーランド) → 2017 Kamphaengphet FC(タイ) → 2018,2019 FC Ulaanbaatar(モンゴル)
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