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博士の愛した数式

私の母親が晩年認知になった。
他界する前は、長男の私のこともよくわからない状態であった。
鎌田實先生の名言に「子供叱るな過ぎた道。年寄り叱るな通る道」という言葉があり、頭ではわかっているが、腹が立つというか情けなっかった。
鉄棒が苦手で、逆上がりが出来るまで残された時「たかが逆上がりでここまでやる?あんたの教え方が悪いんでしょ!」と担任に怒鳴り込んだ強い母。風邪をひいた時、注射が嫌いで絶対に医者行かないとぐずる私を、寒空の中遠くまでおんぶしてくれた優しい母。
そんなあなたが、なんでこうなってるの?
そんな気持ちが渦巻き、情けなくて母の病院から足も遠のいていた。

母がなんで?
何人かの医者に質問した。
「脳の老化現象だから仕方ない。」「このまま様子を見守るしかない。」
変な言質をとられないように慎重に、出来るだけエビデンスのある言い方をしよう。そんな感じが聞いている側にも手に取るようにわかった。
そんな中、たった一人の医師だけが、私は医者なのに非科学的なことを言います。と前置きをしたうえで、「認知というのは、だんだんと脳が衰えて、亡くなるときには、もうほとんど何もわからない状態になる。死への恐怖から逃れるための人間の生理現象のように思える時がある。これは自然の摂理みたいなもので、人知の及ばない神の領域とも思える。」と言われた。
これが大学病院の一流の医師だっただけに驚き、私には説得力を持った。
以降、最後まで一緒に居てやろう。それが唯一の親孝行と思い、母を看取ることができたと感謝している。

前置きが長くなったが、私の母のように高齢になってから認知になるのは「自然の摂理」だとして、もっと若くして同様の状態になる人がいる。
そんな主人公の物語が「博士の愛した数式」である。
交通事故で記憶が80分しか持たない元数学者(寺尾聰)と家政婦の私(深津絵里)と私の10歳の息子ルートとの心のふれあいを描いたもので、数学者の病が進行し、施設に入らざるを得ない状況になるまでの物語。
主人公の状況は壮絶で悲壮なはずであるが、寺尾聰と深津絵里の繊細な好演のおかげで、暖かいヒューマンドラマに仕上がっていた印象である。

この病気は「前向性健忘」と言うらしく、交通事故などの外傷によることが多いらしい。
「博士の愛した数式」の映画化の前に、何本かこの「前向性健忘」で苦しむ方のドキュメンタリー番組を見たことがあった。
この病気に罹患しながらも出産し子育てする女性。80分ではなく7分しか記憶が持たない男性。珍しい病気で、症状が鮮烈なため、ドキュメンタリー番組に馴染むのであろうか。毎回毎回、取材する度に自己紹介するスタッフの姿まで映し出されていた。
「博士の愛した数式」は2人の名演により、ヒューマンドラマとして好きな作品であるが、その前に見たドキュメンタリー番組は、「こんな病気があるのか」と驚きはしたものの、後味の悪いものであった。
前々から感じていたことであるが、「ドキュメンタリー」について考えてみたいと思う。

◇ ◇ ◇

「ドキュメンタリー小説・映画・番組」というジャンルがある。
ドキュメントの意味は文献・記録、すなわちノンフィクション。小説・映画・番組はフィクション。この言葉の組み合わせは意味不明である。
私は勝手に「ドキュメントを元にしたフィクション」と定義している。
このジャンルの代表は山崎豊子さん。リアリティと臨場感があり「どこまでが事実なんだろう」と考えながら読むのは楽しいものである。作品はすべて読破し、映画もすべて観ている。

純粋なドキュメンタリーというのは存在するのであろうか。
私は存在しないと思っている。
事実のみを綴ったものであっても、必ず小説なら作家、映像ならプロデューサーやディレクターの意思。私はこう理解する、こういうことを感じて欲しいという意図が加わるはずである。
「Fukushima 50」で、門田隆将さんが「日本人だから乗り越えられた危機」とコメントしておられたが、日本人の律義さ、責任感などを感じて欲しいという意図だったのだろうと想像する。
作家・製作者の意思や意図がないドキュメンタリーなど存在しないし、あっても全く面白くないと思う。
前述の「前向性健忘」で苦しむ方のドキュメンタリー番組の後味の悪さとは製作者の意図が見えないどころか、スタッフを頻繁に登場させるという愚策を多用していたからかもしれない。あるいは事実を見せるだけで驚きと感動を伝えることができると考えたのかもしれない。

「ドキュメントに対する製作者の意思や意図」と言ったが、「意思や意図」を加えることの怖さも感じる。
小説なら作家一人の「意思や意図」でありそれを評価しながら読めばいい。
気持ち悪さを感じるのは映像である。
ご存じの通り映像は、多くの人たちの協業である。「意思や意図」があったとしても、それは誰の「意思や意図」なのだろうか。いかに優れたプロデューサーやディレクターが指揮していたとしても、それは組織としての「意思や意図」の可能性が高い。
「意思や意図」が組織の「主観や恣意」ではないのか。
視聴者への印象操作ではないのか。
観る側もボヤっとみていられないような気がする。

映画紹介のつもりが話が散漫としました。
どうもすいませんでした。花粉症のせいです。

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