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夜驚 (やきょう) 動物病院のカルテ④

「うわぁああああああああーーー!!!」
羽尾高志は叫び声を上げながら、布団から跳ね起きた。そしてロフトの二階から階段を転げ落ちる様にして、窓ガラスに衝突する手前で危うく止まった。
息を整えながら時計を見ると、時刻は午前3時を少し回ったところだ。
外はまだ暗く、近所迷惑な事甚だしい。
しかし、いつからか始まったこの悪癖を、羽尾はどうする事も出来ないでいた。

「それでは、お大事になさって下さい」
皮膚病の治療を終えたチワワと、その子を抱っこしている女性を診察室から見送りながら、羽尾は頭を下げた。
新卒でT動物病院で働き始めて、そろそろ一年が過ぎようとしていた。
「羽尾先生、ありがとうございました」
飼い主さんからも、漸く名前を憶えて信頼してもらえるようになった。
獣医と看護師と受付などのスタッフが総勢20名という大規模な動物病院で、毎日様々な患者が引きも切らずやってきて、常に忙しく働いていた。
犬、猫、兎、鳥、亀、蛇、猿、ハムスターなど、ありとあらゆる動物が診察に訪れた。
そして、皮膚病、腎臓病、肝臓病、怪我、ガン、骨折、健康診断、歯周病など、これもまたありとあらゆる病気や健康体で診察に訪れた。
病院で帝王切開などで出産をする動物もいれば、重い病気で入院していたり緊急の状態で搬送された動物が、不幸にして亡くなる事もあった。

羽尾がT動物病院に就職を決めたのは、たくさんの動物を診察して、自身が成長したいという狙いがあったからだ。
そして、多く動物を診るという事は、多くの動物の死を目の当たりにする、という事でもあった。その事を羽尾はどこまで理解していただろうか。

ともあれ、必然的に羽尾は死について深く考えるようになった。
人や動物は、いつか必ず死ぬ。
その事は、誰でも知っていて、理解しているはずだった。
しかし、どうやら本質的には分かっていないのでは無いか、と今は思っている。
なぜなら過去の自分がそうだったからだ。
そして、犬や猫の死期が近づいたり亡くなってしまった時に、家族の人は動揺する。
必ず死ぬと分かっていた筈なのに、である。
これがもし、自分の死だったら、どうなるのだろう?
結論は今迄の全ての人が出せなかったように、羽尾にも死後の世界は分からない。
しかし、動物医療に従事する者としては理論的に考える必要があり、死後はある部分では無に帰す事であろうと考えている。

さて、夜になる。

特に疲れた日の夜であろうか、はたまた動物の死を見送った夜であろうか。
眠りと覚醒の中間、布団の中で微睡んでいる時にそれはやって来る。
羽尾は横になりながら、自分が死について考えている事を理解する。
「あ、これを考えているとダメだ」
頭では分かっているが、止められない。

シャワーを浴びている時に水を弾く腕が無くなる。今、暗闇の中で何も見えていない。これが永遠に続く。べっとりとした黒い闇がある。しかもそれすら分からなくなる。何かを感じているこの感情も無くなる。今迄してきた事や学んだり身につけた知識も全て無になってしまう。そして、時間が流れていく。今迄永遠のような時間が流れてきた様に、これから先もずっと。そして自分の存在が、生きてきた意味が風化して行く。全てが混じり気の無い無になって行く。暗闇の中で、宇宙の中で、地球も太陽もいずれ寿命が来て亡くなる。それでも永遠に時間が流れていく。自分が無の時間が。紛れも無い恐怖が実体を持って自分を絡めとっているが、それすら無になる。

「うわぁぁぁぁぁぁぁああああーー!!」

未だに羽尾はこの癖に悩まされている。
対策も答えも、まだ出来ていない。
いつかこれが無くなるのかは、未だに分からないでいる。
しかし、以前より丁寧に生きよう、そして丁寧に生かそうと考える様になったのは確かである。
当然だが、こんなことは飼い主さんは知らない。


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