見出し画像

「 #オールガイナーレ 」と「東山の約束」

これを書くにあたって、2009年のイヤーDVDの終盤を見返していました。

吉野智行(当時は選手。現強化部長)は口にしたのです。

「まだ続くから。この経験をした俺らは絶対に強くなれる。だから、またかよって言われるかもしれないけど、最後まで、Jリーグ行くまで、J1行くまで、ホントついてきてほしい!」

この一連の文言は「東山の約束」と言われたものです。これは、ガイナーレ鳥取の存在意義を問う「挑戦状」代わりの文言でもありました。

2010年、遮二無二突っ走った

監督のヴィタヤ・ラオハクル氏が前年末に故国タイで起こした交通事故の影響で監督業に就くことができず、キャンプイン直前に松田岳夫氏に交替するというアクシデントこそあったのですが、シーズンが始まってみると序盤から快調なシーズンでした。
何しろ負けないのです。開幕14戦で無敗(10勝4分)というハイペースで切り抜け、天皇杯のJFLシードを獲得したばかりか、前期を首位で折り返しました。

俺はこのシーズン、実はあまり多くは参戦していないのです。7月に父親を亡くしてしまい、いろいろな後始末で忙しかったのと、しばらく服喪の意味もあって参戦を控えていたから、ということに尽きます。
SAGAWA SHIGA FC戦(あの、とりスタに9,499人の観客を集めた試合。ちなみにこの相手にはこのシーズン初めての黒星をつけられており、言わばリベンジマッチでもあった)に久々に参加した時は、ゴール裏に行くのがとにかく楽しかった印象しかありませんでした。

ともあれ、10月頭のアルテ高崎戦を快勝したことで4位以内を決め、Jリーグへの切符の端っこ(成績的な要件が満たせた、という意味)を手にできたわけです。そして、その月の24日に行われたどらやきドラマチックパーク米子東山陸上競技場での栃木ウーヴァFC(現栃木シティFC)戦を勝ち、JFLで最初にして最後の優勝を決めました。

かくして、シーズン終了後のJリーグ理事会でガイナーレ鳥取はJリーグ参入を承認されたため、「東山の約束」はまず「Jリーグに行く」という部分では果たされています。しかし、ここからがキツかったのでした。

J2での最初の2年はもがき続ける2年間だったが、楽しかった2年間でもあった

2011年は引き続き松田監督が引き受け、2012年は吉澤英生氏(現栃木SCヘッドコーチ)が監督を引き受けました。2011年は東日本大震災の影響もあり、日程はかなり変則的でしたが、19位と参入初年度にしてはまずまずだったかもしれません。
2012年はなかなか苦しみ、なかなか順位を容易に上げられず、最終的には20位でシーズンを終えることになりました。

でも、この2年間は強くはなかったものの、J2という決して容易ではない世界にいながらも、どこかそれを楽しむ余裕のようなものがあった気がしてなりません。
他の方はどうなのか知る由もありませんが、俺自身はそんな気持ちでいるつもりでした。
ただ、俺自身はというと、2012年の春に最初の脳梗塞をやってしまい、結局、春先の湘南ベルマーレ戦以降、ほとんどの試合を欠席して(終盤の湘南ベルマーレ戦のパブリックビューイングを観に行ったり、最終節のアビスパ福岡戦を観に行ったり程度)います。

だって、9月頃にSC鳥取ドリームスの試合(この時は中国リーグにいて松江シティFCと試合をした)を観に行って応援行為などしたら、いろいろボロボロでお話にならなくて、この時と、上記の福岡戦での体たらくがあったので、翌年にゴール裏を退こうと思った次第で。ま、それはどうでも良いことなのですが。

2013年は挑戦の年になる・・・はずだった

2008年のあの「龍ケ崎の悲劇」を知っている小村徳男氏が監督になったのが、この2013年です。補佐役というわけでもありませんが、前年に監督をやっていた吉澤英生氏がヘッドコーチになりました。強化部長は、あのう・・・え~っと・・・PJMフューチャーズや横浜フリューゲルスやヴォルカ鹿児島にいたあの人です。名前はあまり出したくありません。

ともあれ、この一種のトロイカ体制でシーズンが始まりました。確かに勝てなかったし、フラストレーションはたまりましたけど、その頃、ほぼ現場に行ってない影響もあってか、そこまで酷いとも思いませんでしたし、むしろ監督業初挑戦の小村氏は、吉澤コーチと二人三脚でよくやってる方だったんじゃないでしょうか。

しかし、そんな小村監督も、8月上旬に任を解かれてしまいます。これだけでも驚いたのに、後任があの人ですよ。先程名前を出したくないと言ったあの人です。
小村監督の時には、まだ何とか勝てていたのが、この人物が監督になるや、その気配すらなくなってしまいます。

11月に久々に観に行ったこの試合は何とか引き分けましたが、苦しんだ試合でした。でも苦しみながらも、ピッチの上の選手たちは何とかしようとしていました。
だけど、ガイナーレ鳥取は最下位転落。そして、翌年から創設されることが決まっていたJ3リーグに行くのか、あるいは現状維持でJ2リーグに残れるのかを賭けたホーム&アウェイ方式の入れ替え戦に臨むしかなくなりました。そして・・・。

この試合を観に行った様子を書いたのがこのブログエントリなんですが、本当はこの10倍ぐらいはいろいろと書きたかった。でも、抑えて抑えて必死に抑えてあれです。今読み返しても実に恥ずかしいですが、でも、この時はこれでもまだ書き足りなかった。

今にして思うと、挑戦の機会を失ってガタガタッと来たのかなって思えてならないんですよ。

何より、引退する吉野をこんな形で送り出したくなんてなかった。でも、こうなってしまった以上は仕方がありません。

2013年はガイナーレ鳥取にとっても、株式会社SC鳥取にとっても試練続きの1年でした。ピッチの外でいろいろありましたしね。ユニフォームはカッコいいんですがね。

J3以後、ガイナーレは変化し始める

2014年以降、ガイナーレ鳥取はJ3リーグに戦いの場を移します。俺はというと、前年末の入れ替え戦第2戦で、「もう自分の身体は90分の応援行為に耐えられない」ということを痛感したので、久々に観に行ったこの試合以降はゴール裏からスパッと退きました。

脳梗塞なんかするもんじゃありません。いや、本当に。皆さんも健康にはくれぐれも留意された方が良いですよ。俺みたいな不摂生が一番いけません。

えっ?

そんなこと言ってるくせに、
おまえ数年後に再発しただろう・・・って?

いやはや、面目ありません・・・。まったく何と申し上げて良いものやら、言葉が見つかりません。

それはともかくですね、本当にキツい時期でした。でも、この頃はまだ身体が動く方でした。なので、ボチボチ観戦に本格的に復帰しようかなって思い始めた時期でした。

この2014年と2015年はそれなりにサッカー観戦をしましたが、自走で行く範囲を半径60㎞程度(東なら米子)程度にしました。それ以上行くと怖いんですよ。いや、それ以前に何となく勢いで実は自走してるんですがね・・・。でも、今はもうできませんし、当時もよくそんなのやれたなあって思いました。

ともあれ、この間、俺も社会復帰とかできたので、だいぶいろいろ余裕ができてきました。障害者雇用ってなかなかないんですよ。でも、どうにかこうにか雇い入れてくださる奇特な会社がありましてね。

えっ?

おまえのことなんざ知らねえよ?
早く本題に行け?

・・・すみません。そうします。ともあれ、松波正信氏が監督をしていた2014年と2015年は楽しかった。勝てたり勝てなかったり波があったのは確かですが、2013年終盤期よりはずっと楽しかった
なるほど、松波氏は確かに俗に言うところの名監督ではないかもしれない。ただ、期待感を持たせてくれる人でした。

翌2016年に監督になったあの人が来るまでは。何だったんでしょうね、あの「闘将」と呼ばれたお人は。

でも、あの人を監督に頂いたおかげで、わかったこともあるんですよ。ガイナーレ鳥取は、ああいう「固有の色」のようなものを持った監督よりも、最初は何色にもあまり染まっていない人の方が良いのかもしれない、ということに。

考えてみると、松田氏がそうだった。あの人はヴェルディの監督をしていましたが、その期間は決して長くはなく、むしろ女子サッカーのチームでそれなりに名を成してきた人で、男子のサッカーではさほど「これ」という固有の色を持っていなかった。
小村氏もガイナーレ鳥取で初めてトップカテゴリのチームを率いています。そして、松波氏もガンバ大阪で監督歴こそありましたが、そもそも就任のきっかけからして唐突な面があったので、彼自身も手探りな部分があったのではないでしょうか。むしろ彼の色は鳥取時代に熟成されていったと考えるべきかもしれません。

そこに、ある種「固有すぎるほどの色を持った人」が監督としてやってきてしまったわけです。いろいろあって、この監督はうまくいきませんでした。でも、うまくいかなくて当然だったのかもしれませんね。
俺はこの監督のシーズンの後半戦をほぼ見ていません。この頃に二度目の脳梗塞をやっているからです。観られなくて良かったのかもしれませんが、何とも申し上げられません。

そして、2017年には森岡隆三氏が監督になりました。このシーズンは結構最初から観に行ってたりします。

この頃はまだチームが調子の良い頃だったので、楽しく試合を観ることができました。ただ、このシーズンは概して不調な部類に入り、やがてある時期からガクンと調子を落とし始めて、結果的には最下位に低迷してしまいました。

俺が好きなユニフォームのシーズンって、どういうわけか成績が低迷するんですよ。何でなんでしょうね?

えっ?

オメーの趣味が悪いからだろ?

それを言われちゃ身も蓋もありませんが・・・。ともあれ、ユニは格好良くて好きだったんですが、成績がどうにも伴わず。
でも、これまでだったら、小村氏の時みたいにしちゃうんでしょうが、それをしなかっただけ良かったのかもしれません。単純に後任の人材がいなかっただけという説もないわけではありませんが・・・。

ともあれ、2018年も森岡氏が留任しました。序盤はそれなりに良い滑り出しだったかもしれませんが、その後、少々蹴躓いてしまいました。この時期が良くなかったのかもしれません。
それでも天皇杯のヴェルスパ大分戦で持ち直しましたし、その後のブラウブリッツ秋田戦で快勝し、よし取り戻せるぞと思った矢先に監督交代でした。

須藤氏もトップカテゴリの指揮経験がほぼなく、余分な色の希薄な監督と言えるでしょう。そんな監督がうまくいってしまうのですから、わからないものです。無論、須藤監督も全面的に順風満帆なわけはなく、一時は苦しんだ時期もありました。

ですが、この須藤氏にしても、前任の森岡氏にしても、固有の強い色を持たなかったことが良い方に作用していたと俺は思っています。
須藤氏は猛烈な追い込みをかけましたが、やはり森岡氏の時期や須藤氏の途中までの時期にも合ったような停滞が響き、3位でフィニッシュしました。とは言え、レオナルドが得点王になるなど、明るい話題もそれ相応に多かった気がします。

しかし、須藤氏は家庭の事情を理由にチームを去りました。やむを得ないことです。後任はなかなか決まりませんでしたが、最終的にはU-18で監督をしていた、かつてのコーチでもある髙木理己氏が決まりました。

その髙木氏がコメントの中で用いたのが、「オールガイナーレ」です。

オールガイナーレ

この時のnoteでも言ったと思いますが、その意味するところは実はわりかし大きく深いものだと思うんですよ。

そんなことを言うと、新監督は「そんな大袈裟なことを言わないでくださいよ」などと言いそうですが、でも、あの「東山の約束」から多くの時が流れて、人々の心の持ちようもそれ相応に変化していく中、継続して支援応援を続ける人々・あの約束のあとに支援応援の輪に加わった皆さん・・・いろいろな人々がいますが、それらを全てひっくるめて「オールガイナーレ」なのですよ。

もちろん、人はそれぞれに異なりますから、その思惑も人によりけりでいろいろと異なるでしょう。考え方も違うし、見据えているものだって異なると思います。

ただ、またJ2の舞台に上がりたいし、それこそあの時に吉野氏が言っていたように、最終的にはJ1にまで上り詰めたい。そういうヴィジョンを描いている人だっているかもしれないでしょう?

そういう様々な思いを持ってガイナーレ鳥取の後押しをしてる人々がいるわけですよ。
それら全てを称して・・・

オールガイナーレ

で、いいんですよ。ガイナーレ鳥取に何らかの形でリンクして、程度の差・やり方の違いこそあれ、後押しをする。そこに何の別があるんですか。形はどうあれ支えるから「サポーター」っつんでしょ?
なら、その名の下に集う人々や、何かをする人々を、それぞれの自由を尊重しながらユルく連帯したら良いんです。それこそが「オールガイナーレ」だなって、俺は思うんですよ。

法律・条例・クラブ若しくはスタジアムなどの諸施設が定める規定、これらに反することさえなければ、スタジアムに集う人々も行けない人々も、ガイナーレ鳥取の名の下につながることを是としようじゃないですか。

東山の約束から10年近くが経過しましたが、あの約束は、まだほんの端緒についたばかりなのだと今でも思っています。そして、あそこで吉野氏が口にした言葉は、これまでもこれからも、色褪せることなく生き続けるんだと思っています

いつの日か、ガイナーレ鳥取がJ1の舞台に立つ日が来るその時まで。

俺はもう、身体の事情もあるので応援活動はできないけど、でも、長い間か変わり続けてきているガイナーレ鳥取をこれからも、事情の許す限り見届けていけたら良いなって思っています。

基本的に他人様にどうこう、と偉そうに提示するような文章ではなく、「こいつ、馬鹿でぇ」と軽くお読みいただけるような文章を書き発表することを目指しております。それでもよろしければお願い致します。