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アセクシュアルと、自分の中のやんわりとした呪い

(12/26追記)
 初めての記事にも関わらず、ご覧いただいたりスキしていただいたり、誠にありがとうございます。とても嬉しいです。
 改めて自分で読み直した際、一部引っかかった部分がありましたので少し修正をいたしました(当該部分にも追記し、分かるようにしております)。この修正に関しては自身の考えや感情を整理した後に別記事でまとめようと思っています。
(12/26追記終わり)



 自分の恋愛観についてぼんやりと考え始めたのは大学4年の秋のことだった。地方の小さな大学での最後の年をそれなりに忙しく過ごしていた時、友人同士でよく交わされた話題があったのだ。

「卒業する前にやれることはやっておきたいね」

 社会人になる者、大学院へと進む者、あるいは休学して海外を巡る者、さまざまな進路を持つ友人が集まり、ほんの些細な目標から大きな願望まで、いろんな「卒業前にしたいこと」を話し合った。時間のあるうちにどこかへ行きたいと誰かが言い、私はあそこ、私はどこそこ、と話が盛り上がっていき、卒業旅行にどこ行きたい? という話になって終わるのが常だったが、アパートに帰って一人でその話題を考えたとき、そういえば自分は恋愛をしたことがないな、とふと思った。直後、いや「できなかった」のかもしれない、と思い直した。

 過去、自分は「一般的に好ましいと思われている」体型とは縁遠かった。暴力的に言えば「デブ」で「ブス」だった。田舎生まれ田舎育ちでの幼稚園~中学時代まではまだよかった。全員幼馴染というレベルで、自分の体型などいじられることはあるにしろ、攻撃対象にはなっていなかった。
 ところが田舎から多少都会の高校に通うようになって環境が一変する。激しくいじめられたわけではないが、陰でコソコソ聞こえるように(書いてておかしな矛盾だと思うが)暴言を投げかけられる、横を歩くだけで地震が起きているような動作をされる、遠くからジロジロ見られて笑われる。そうした地味な嫌がらせが3年間続いた。
 中でも一番堪えたのはこちらをニヤニヤ見ながら「お前あいつと付き合えよ」「嫌に決まってんだろ気持ち悪い!」というやりとりをされることだった。そこに私個人は介在していない。私は「デブでブス」という要素だけに圧縮され、彼らのじゃれ合いの道具となっている。だから、彼らには「私」を痛めつけているつもりはないのだろう。痛めつけているのは「デブとブス」という要素だ。これだけは今でも思い出すだけで苦しい。
 もちろんそれは全員からやられたわけではなく、一部の男子からやられただけだった。それ以外の人は案外普通に接してくれたし、何より私には部活動という拠り所があったため、おおよそ無事に3年間を生き抜くことができた。しかし「自分は恋愛をしてはいけない人間」という観念を心の奥底まで刻み込むには十分すぎる3年間だった。

 高校卒業後、大学に進学し一人暮らしを始めると同時にダイエットも始めて1年半で20kg以上落として見事標準体重となった(※)。単純に嬉しかったが、もちろんそれでコンプレックスは解消されなかった。高校時代に暴言を投げていた男子と似ているタイプの人間は男女問わずどうにも苦手で、話しをしたこともないのに勝手に嫌悪感を抱いていた。偶然か必然かは断言できないが、その苦手なグループが大声で話していて漏れ聞こえてくる内容が大体合コンや付き合った別れたなどの「恋愛」関係だったということもあって、自分の中の恋愛に対する拒否感はますます強固にこびりついていった。

(12/26追記)
※掲載した当初は「見事標準体重を勝ち取った」という表記にしていましたが、修正いたしました。良い表現ではなく、もしかしたらご覧いただいた方の中で不快に思われた方もいたかもしれません。大変申し訳ございません。表現の修正については冒頭記載の通り、別の記事で自分の考えをまとめるつもりです。
(12/26追記終わり)

 そして大学4年の秋。自分は恋愛が「できなかった」と思う。じゃあ今からでもしたいか? というとそこは疑問だった。それが果たして過去のあれこれや「そんなもんやってやるもんか」という反発からなのか、本当にしたくないと思っているのか、自分で言い切ることができなかった。
 ある時、よくお世話になっていた大学のおじいちゃん先生の研究室へ行き、思い切って聞いてみた。「自分は今まで恋愛をしたことがない。人を好きになることはできるのか」と。そのおじいちゃん先生は私に向き直ってこう言った。

「『好き』という言葉にもいろいろ意味があります。恋愛的な『好き』という意味だけが取り上げられることが多いけれども、尊敬や敬愛の意味での『好き』もある。私はあなたを信頼という意味で『好き』だし、あなたもちゃんと友人や他の人のことを『好き』になれていると思いますよ」

 その瞬間、自分の中での古傷が少し和らいだ気がした。その後、おそらく先生は「よかれと思って」一言付け加えた。

「大丈夫、あなたは今でも素敵な女性です。そのうちぴったりの人が見つかりますよ」

 そう言われたその時はとても嬉しかった。今まではぴったりの人がいなかっただけなのだ、私にも「恋愛」ができる日が来るのだ! 私は悪くなかったんだ!
 たまたまその後、仲の良い友人の家に泊まらせてもらった時にも友人の母親に「あなた達二人とも、4年間で一度も誰かと付き合ったことがないまま卒業しちゃうのね。でもまあ社会人になったらいい人見つかるかもね」とおじいちゃん先生と同じようなことを言われ、二人で「そうそう、いい人見つかるから!」と笑っていた。

 私は無事に卒業し、友人とも卒業前にしたいこと=卒業旅行で海外へ行くという目標をクリアし、社会人の世界へを足を踏み入れた。入ってしまった会社がなかなかのブラックだったため、2年で転職~田舎から都会へ引っ越しという忙しい数年間を過ごし、身辺がだいぶ落ち着いてきたところで、例のやり残したことを思い出した。
 そういえば社会人になって数年、恋愛について真剣に考えたことがあっただろうか。忙しくて考える暇がなかっただけだろうか。

 答えはゼロだった。考える暇がなかったわけではない。本当に考えていなかったのだ。ここで私はまたわからなくなった。そして未だに過去……恋愛をしてはいけない自分……に囚われているのでは、と急に怖くなってしまった。そこであれやこれやと検索したり調べていく中で「アセクシュアル」というものに出会った。

  性的指向の一つで、(中略)通常は、他者に性的に惹かれないことを指しますが、「性行為や性的魅力をそれほど重要視しないこと」と定義する場合もあります。

【出典】
ジュリー・ソンドラ・デッカー(上田勢子)『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて ―誰にも性的魅力を感じない私たちについて』(明石書店、2019年)18ページ

※アセクシュアルという言葉を見つけた当初、上記出典の書籍は未出版・未読でしたが簡潔にまとめられているので引用いたしました。

 これだ、と思った。しかし直後、自分のような中途半端な人間がアセクシュアルを名乗るのは「失礼」じゃないかとも思った。それでいよいよわからなくなってしまった。
 幸運なことに、友人を含めて自分の周りにはネットで見聞きするような異性愛規範を押し付けてくるような人間はいなかったし、職場でも上司から軽くいじられはするものの(早くいい人見つけないとダメだ、とか)、それ以外の同僚や先輩からはほぼそういったいじりは受けないので、そういった面では悩みは少なかったが、よりいっそう自分の中途半端さが嫌になってしまった。
 どうしたらいいんだろう。どうしたらこの中途半端な自分をしっかり立たせてあげられるのだろう。

 調べていくうちに先程の出典元である『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて ―誰にも性的魅力を感じない私たちについて』という本が出ているというのを知り、たまたま買い物に行った先の本屋で売られていたので真っ先に購入し、一晩で読んでしまった。

 読み終わった後、少しほっとした。こんな中途半端な自分でも、居場所がありそうだということに。恋愛や性的魅力に興味を持ったことのない自分が、興味を持てなくなった理由を過去に探し回っていたのも(そもそも興味を持たなければならない理由などないのに)、お世話になった人達がよかれと思ってかけてくれた言葉も、みんな私にとってはやんわりとした呪いだったのかもしれない。完全に呪いが解けたわけではないが、「これが呪いである」という判断はつけられるようになったことだけでも楽になった。

 また、この本を読もうと思い立った方の記事で右手中指の黒い指輪がアセクシュアルのシンボルだということも知った。

 私も当該記述を読み、指輪が欲しくなって買いに出かけた。12月24日。世の中はクリスマスのきらびやかな飾りで溢れている。しかし黒い指輪はなかなか見つからず、ハンドメイドパーツを扱う店で材料とレシピを購入、試しに作ってみたのが記事冒頭の写真だ。「黒い指輪」というより黒をモチーフとした指輪となってしまったが、ひとまずこれが私の拠り所だ。私から私へのクリスマスプレゼントだ。

 まだまだ考えなければならないことはたくさんあるし、解けていない呪いもある。未だ許せていないし、許す気もないこともある(今の社会の異性愛規範とか恋愛性愛至上主義とか)。少しずつ整理しながら、少しずつ自分の憑き物を落としていけたら、と思う。

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