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歩く辞書ではない。

大人が正解だと思っていた。

大人の言うことは正しくてそれに従わなければならないと思っていた。やること、なすことを真似ていれば自分は正しく生きていけるのだと、迷子のときのコンパスのように大人を信じていた。

だから、自分も失敗してはいけない、誰かの指針として間違った道先を教えてはならぬと妙に力を入れすぎていた。その考えは間違いだとだんだんわかってきた。

20歳から大人の仲間入りを形式的にさせてもらったけれど、それは本当に形式にすぎず、25歳になった今でも全然思い描いていた大人にはなれていない。そうなれていないのは、思い描いていた大人があまりにも現実離れした完璧鉄壁のスーパーマンだったからだ。

学生時代は誰からも批判されぬような誰にでも優しい人間を目指していたが、そんなことは全く無理な話で、そんなことをしていたから心から慕われているという実感は乏しかった。批判したり、怒ったりしなかったから見下されることもしばしばで、自己肯定感も今よりもっと低かった。今なら、ダメなとこを見せる方が、見せれる方が自分も他者も助けられるのにとわかるが、当時はわからなかった。

欠点こそが人間最もの美しいところだ。25歳の自分は今そう思っている。人の考えることなんてすぐ変わってしまうけれど、今はそう決めつけたい。

もちろん、かっこよかったりいけていたりするところも心惹かれるが、それよりも「あの人があんなこと言うんだ」とか「あんなに強気な人が弱音吐いてるよ」とかそういう弱さに心動かされる。ここで100点を目指す自分が何だかちっぽけに思えてしまった(まだ完璧を目指す心が生きていてじゃまだけれど)。

会社でもそうだ。トライアンドエラーで日々成長していくのが組織や人だ。初めて経験することで右往左往してしまうのは仕方ないことだ。そこを許せないでいたら、何を許せるのか。

大人=完璧を消し去るのは、100点を目指してきた自分には簡単なことではないが、弱さを見せる、誰かに頼ることこそが強さであると信じて生きていたいと思う。

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