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扇紋 〜なごみ2022.11月号より〜

扇紋の種類は大きく「開き扇」と「閉じ扇」に分かれる。「開き扇」は、重ねや地紙(じがみ)の中に文様や文学を入れたもの、扇を様々な形に模した表現などがある。一方、「閉じ扇」は扇の並べ方で表現していることが多い。その他にも檜扇(ひおうぎ)や地紙のみの家紋など扇紋は多種多様に存在する。意味としては扇の末が広がることから「末廣(すえひろ)」とも呼ばれ、縁起物の代表とされてきた。平安時代の絵巻物などにも扇形や地紙形を模った表現が多数ある。

扇を最初に家紋に用いたのは鎌倉時代初期に常陸国七郷(現在の茨城県北部)を治めていた佐竹氏といわれている。『吾妻鏡』には「佐竹四郎、常陸国より追って参加、佐竹持たしむるところの旗・無文(紋)の白旗也。二品(源頼朝)咎めし給ふ。御旗と等しくすべからざるの故也。よりて御扇を賜ひ、佐竹に於いては、旗の上に付くべきの由、仰られる」とあり、以後「五本骨月丸扇を旗に結び家紋とした」とある。ちなみに月丸扇は陰紋で表現され黒抜きであり、白抜きの日の丸扇と間違えやすい。

五本骨月丸扇紋(佐竹扇)
丸に三本並び扇紋(閉じ扇)

佐竹氏は江戸時代に秋田に国替えとなるが、秋田藩(久保田藩)初代藩主となった佐竹義宣は茶の湯を愛し、古田織部に師事した。また、加藤清正が朝鮮出兵時に持ち帰った巨大な水鉢を後に石田三成の計らいでもらい受け、居城である久保田城内の茶室「宣庵」に据えている。明治時代、華族世襲財産法改正によって家宝の『佐竹本三十六歌仙』手放すことになり、後に益田鈍翁が手に入れる際、あまりに高価であったことから、一歌人ずつに切り分け、美術商の仲介で抽選で分けあったという逸話は有名である。

佐竹本三十六歌仙絵 頼基像 遠山記念館蔵 重要文化財

一族の内乱、国替えなど幾多の危機にさらされたにもかかわらず、幕末まで家が残ったのは、末廣の意のある扇紋のおかげかもしれない。

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