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今を生きすぎている-大学の哲学集中講義-

大学二年の頃、夏季集中講義というものに参加しました。これは普段は半期でとる単位を夏季休暇中の1週間朝から夜までの講義を受けることによって同じ単位を取得するという講義です。私はこの集中講義というものが好きでした。通常の講義よりも少人数でそれゆえ学生が意見を言う機会が多くあり実践的なものが多く新鮮で楽しいのです。

最も印象に残っている講義があり、それが大学二年の夏に受けたドイツ哲学概論(みたいなのだった気がします)です。その講義は「普通じゃないことを考えよう」みたいなところから始まりました。例えば「服を着て外に出ないこと」とか色々意見が出たのですがそのどれもがよくよく考えてみるとどこかの誰かには「普通」であることを知ります。哲学はそういった自分が普通だと思っていることをどんどん覆して考えていくこと、みたいな導入だったと思います。ドイツの有名な哲学者は誰々で、こういった特徴があって、とかそういう講義ではなく、教授が様々なテーマを出していって学生はそれに対してどう思うかを意見し合い、教授がそのディベートを補完するというような時間をひたすら繰り返しました。

1日目の中盤、テーマは「時間」で「「今」はあるか」というお題で始まりました。今しかない、人生は今の瞬間の積み重ねです、という意見の中私は今というものを感じたことがないなとその時思っていて、「今は過去と未来の余韻」というフレーズを思いつきました。私はこのフレーズが大好きでこの講義が終わった後何度も一人で「いや~この「余韻」っていう語彙がいいんだよねえ~」と自画自賛しておりました。今も定期的にしています。

簡単に言うとその過去と未来の余韻という感覚はあるものの私はずっと「今」を生きすぎていた気がします。昨日の記事を書いて寝て今日、朝そんなことをふと思いました。風に吹かれての歌詞をいいねえ~と思いながらもなぜ昨日はそう思わなかったのか不思議なのですが。(眠っている間に考える過程があったようです。)今を今を生きなさい、とか今を頑張らないと、とかそういう言葉に私は今まで翻弄されてきた気がします。それがなんとなく正しい気がしていましたし、それでか過去と未来の余韻の中で生きる自分をもどかしく思い続けてきました。

でも違う気がしてきました。今のところ「過去と未来は今の余韻」です。私はその時々の感情にとても敏感です。イライラすることや嫌なことがあったらそれをずっと忘れませんし人生終わりだ、死んだほうがマシだと思うこともあります。また逆に楽しいことや嬉しいことがあれば人生は最高だと、やはり自分はそういう星の下に生まれてきたのだと自分の運の良さを誇りに思うこともあります。なんだか極端なんですよね。

今というものにフォーカスしすぎて過去自分がどのような人生を作ってきたかそれに感謝もせず、未来の自分は今の自分に何も関与していない潔白であることをなぜだか忘れているようです。今を生きすぎています。良いのか悪いのか、でもそんな気づきを得た日曜日です。(これも今書かなきゃ後ではもう書かないと思う早く早く!と脳内の今至上主義の自分に急かされて書いています。洗濯しろ)

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