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キュリー夫人伝 - 感想・引用

著者プロフィール: エーヴ・キュリー
ジャーナリスト、ピアニスト。科学者ピエール・キュリーとマリー・キュリーの次女としてパリに生まれる。姉はノーベル化学賞を受賞したイレーヌ・ジョリオ=キュリー。1938年、母マリー・キュリーの伝記である本書を上梓し、世界中で翻訳された。後半生はアメリカに移住。NATOの国際スタッフとして働き、やがてユニセフの事務局長ヘンリー・リチャードソン・ラブイスと結婚。2007年、ニューヨークの自宅で静かに息を引きとる。享年102歳。

キュリー夫人伝

今回の記事は、「放射能」の命名者で、女性として初めてノーベル賞を受賞したキュリー夫人の娘さんが書いた伝記です。

この記事では、本の要約をするのではなく、輪読会を行うにあたり、私が読んだ感想や本からの学び、一部引用を紹介するものです。輪読会用のメモなので、一般的な記事のようにきちんと整理されているわけではないのでご了承ください。

感想

  • 人生・性格

    • 幼少期の家庭環境

      • 親が教授。みんな優秀。兄弟がチフスで亡くなる。

    • 青年期までは本当に純粋で世間知らず。

      • 後に天才と言われるが、幼少期は混じり気がない

    • 学校・勉学が好き。

      • 才能はあったものの、兄弟も才能に恵まれていたため、親に特別に目をかけられた訳ではない。

    • 家庭教師を住み込みでする19歳から。数年。

      • 誰にでも人生が見えず、下積みをする時期はあるのだなと。

    • ポーランドに生まれて緊張状態で祖国に尽くしたい。

      • こういう愛国心みたいなのを日本では感じないのですごいなと。

    • 若者で集まって、未来を語る時期がある。

      • ベンジャミン・フランクリンにも同じような時代があったなと。

    • そのあとパリ時代。

      • 勉強に本当に熱中している。勉強していない時間は無駄。

    • 粘り強さ・執念

      • 新しい元素を見つけてやる・絶対に存在すると信じて、研究し続けるのがすごい。自分たちの研究室も持っていなかった。

      • ライト兄弟の時にも思ったけど、何かを成し遂げる人は金銭面で全然人に頼らず、自分たちでなんとかしようとする。

      • そこに執念だったり、信念だったりがのって揺るぎないものになる。

      • ライト兄弟もキュリー夫人も金銭的に苦しい時を経験している。

      • 貧乏時代を工面するというのも花開くのに必要な要素なのかなと思う。

      • こういう伝記を読むと、何かあるとすぐ資金調達とか言い出す起業家ってどうなのかなと思ってしまう。

    • 表には出さないけど、裏では芯があって負けず嫌いな性格というのも共感する。良いなと思う。

      • 世の中では表面的というとあれだけど、割と刺激に反応する短期的な負けず嫌いが評価される傾向にある。無限のエネルギーと時間があるならそれで良いけど。

      • しかし、自分の芯を持っていて、長期的には必ず勝つという静かなる闘志を持っている人が最終的には勝っているイメージ。見えないので仕方がないが、世の中はこういう人もいるということを認識すべきだし、評価すべきだと思う。『7つの習慣』の「最後には必ず勝つ」という教えと同じ。

    • 何かを悟ったり、タイミングが来た時には、これまでの価値観や抵抗心が一瞬で変わる人というのはなんか面白い。

      • 死を悟ってからの行動だから?

      • でもプロパガンダの件は割とすんなり受け入れている印象。

  • 人との出会い

    • 夫婦で研究者で成功のパターンは初めて?

      • こないだはライト兄弟。兄弟で成功のパターン。

      • やはり良い人に恵まれたときに成功するのだなと。

  • 共通する点

    • 勉強が楽しくて仕方がないという時間ですごい過去を思い出した。大学3年以降はそうだった。

      • 文系学生の大学生活っていわゆるみたいなものが多いけど、一部は学問そのものが楽しい・自分から学びたくてしょうがないという境地に至る。

    • またお金が無くて生活が苦しいという点も過去を思い出した。

  • 第一次世界大戦時、第二の祖国であるフランスに尽くす

    • 無駄になるとわかっていても戦時国債を購入。

    • 放射線装置を作る。トータルで100万人以上を救うことになる。

  • 夫の死去

    • The Washington Postでもあったが、なぜ成功する女性は夫に先立たれるのか。まだ事例が2つしかないので偶然かもだが。

    • 男性は妻に先立たれて、1人で成功するというのは聞いた事ない気がする。

  • プロパガンダ

    • 自分が広告塔として動くことで、お金が集まり、後輩研究者のためになる、人類全体の科学技術の発展に繋がると理解し、そのあとは広告塔をやるように。

    • 湯川先生の自伝は最後まで書いてなかったからわからないけど、自分の理解からすると、キュリー夫人の受容の部分は湯川先生と違うんだなと。


引用

スクウォドフスカ夫人自身も、定めのときのことを思っていた。私に心の準備ができるまで、待ってもらえますように。そしてどうぞこの家の生活を乱してしまうことはありませんように。

いわれなくつらい仕打ちを次つぎもたらし、周囲から明るさもなごやかさも、楽しい空想の世界もう知ばった神に対して、以前と同じ愛を感じながら祈ることは、彼女にはもうできなかった。

ねえ、カージャ……それでもわたしは学校が好きなの。あなたには笑われちゃうかもしれないけど、やっぱりわたしは学校が好き。人好き。今それに気づいたの。夏休み中だからさびしがってるんだとは、口にしないでね!ぜんぜんそうじゃないんだから―……とにかく、もうじきまた学校が始まると思ったとき、気が軽くならなかったのよ。まだあと二年、学校が残っていることも、前ほど長く、おそろしく、つらいことには感じられなくなってきたの。

マーニャはほんとうによく勉強した。そこでスクウォドフスキ氏は、彼女が将来の仕事を決める前に、一年間田舎で過ごすのがいいだろうと考えた。

まる一年のお休み―。そこで天才児らしく早くも天職に目ざめ、ひそかに科学書を勉強する姿を想像する方も、いるかもしれない。だが、まるで違ったのだ……少女時代という神秘的な時間のなかで、体つきが変わり、顔立ちも洗練されていく一方、マーニャはとつぜんのんびり屋になったのだった。そして教科書など投げ出し、生涯で最初で最後のゆったりした時間を、ぞんぶんに味わったのである。

のんびりしたこの一年、マーニャの知的な熱意はまどろんでしまったかのようだったが、かわりに生涯続くことになるもうひとつの情熱、田園に対する情熱が、彼女をとりこにした。あちこちの田舎で過ごし、季節の移り変わりを経験するなかで、彼女は、親せきたちが散らばっているポーランドという土地の美しさに、目をみはりつづけた。

ここまで私は、幼年時代と少女時代のマーニャ・スクウォドフスカを、学業と遊びの両面から描こうとしてきた。すこやかで、誠実で、感受性が強く、明るい女の子。人を愛する心を持った女の子。そして先生たちによれば注目に値する才能に恵まれた女の子。たしかに優秀な生徒だった。だが同年代の子どもたちと比べて、特別に光り輝いていたわけでもない。天才であることを告げるしるしは、まだなにも表れてはいなかったのだ。(Page 79).

ロシア皇帝から禁止され、秘密に印刷されたものもあるそれらの本の、古ぼけたページをめくりながら、教授は長編詩『パン・タデウシュ』の英雄的な長ゼリフや『コルディアン』の悲痛な詩を、朗々と読みあげる。マーニャはこうした晩のことを、生涯忘れることはなかった。父のおかげで、彼女はめったにないような、しかも女の子だといっそう与えられないような、質の高い知的な雰囲気のなかで成長することができたのだ。人生がおもしろく魅力的であるように、こうして胸を打つほどの努力をしてくれた父と、マーニャは強いきずなで結ばれていた。(Page 82)

まず、若者共通の夢であった、国についての夢。ポーランドのために尽くしたいという意志は、将来を考えるうえで、個人的な野心や、結婚や恋愛よりも、たいせつなものだった。(Page 84)

四十年後、マリー・キュリーは、当時のことをこう書いている。社会に目を向けた知的な仲間と学ぶあの楽しい雰囲気は、今もあざやかに道に残っている。活動の手段は不十分だったし、結果もたいしたものではなかっただろう。それでも、あのころわたしたちを導いていた考えは、社会をほんとうに進歩させる唯一のものだったと、わたしは信じつづけている。個人の成長なくして、よりよい世界を築くことはできない。だからわたしたちのひとりひとりが、人類全体の生活のなかでの自己の責任を受け入れ、自分自身の完成をめざして向上していくよう、努めなければならない。わたしたち個々の義務は、自分がもっとも役に立てる人びとを見つけ、その人びとを助けることなのだ。(Page 86)

マーニャは数学や化学を学びたいと思っていただけでなく、既存の秩序を改革したいと願っていた。一般大衆を啓蒙したいと願っていた。進んだ考えと広い心を持つ彼女は、ことばのもっとも純粋な意味での社会主義者だったのだ。(Page 87)

だが、ワルシャワの社会主義学生の団体には、加わらなかった。彼女は、見解のうえで自由でありたかったので、党派の気風というものがおそろしく感じられたし、ポーランドを愛する気持ちから、マルクス主義や国際主義にも距離を置いた。なによりも、とにかく祖国に尽くしたかった。(Page 87)

こうした主義主張や社会的、政治的な興奮のさなかに身を置いても、マーニャは奇跡的に感じのいい女の子のままだった。それまで受けてきたしつけの行きとどいた教育と、現在も彼女を見守る模範的でつつましやかな人びとのおかげで、過激な方向に走ることがなかったのだ。性格的にも内に秘めた自尊心があり、熱情とともに気品を持ちあわせていた。生涯けっして反逆者気どりにはならなかったし、自由主義ぶって勝手気ままにふるまうこともなかった。自立してはいても、仲間うちの俗語を口にしたりせず、タバコなど吸ってみようと思うことさえなかった。(Page 88)

なぜマーニャは、その使命、その天才ぶりを、もっと早くに発見されなかったのか。なぜ周囲は、彼女に家庭教師などさせずに、さっさとパリへ留学させなかったのか。それは、同じように優秀で志があり、熱心に勉強して、学位と金メダルを受けたきょうだいが三人もいる特別な家にいたために、未来のマリーキュリーも、特別には見えなかったからなのだ。もっとふつうの環境なら、才能はただちに周囲の目を引き、驚きやうわさを呼んだことだろう。(Page 96)

のちに天才と呼ばれるようになる彼女も、鋼鉄のような精神を持っていたわけではなく、このように打ちひしがれて、超人的な自信などまるでないまま、十九歳の少女なりに苦しみ、落ちこんでいたのである。だがその一方で、矛盾する姿も見せ、なにもかもあきらめたようにふるまいながらも、ほんとうはひとり精いっぱいの力をふりしぼり、片田舎に埋没しまいと戦っていた。(Page 110)

この研究所で勉強する時間は、ほとんどなかった。たいてい夜、夕食がすんでからか、日曜日にしかでかけていけなかったし、指導者もなくひとりきりだったからだ。そして、物理学概論や化学概論といった本に出ていたさまざまな実験をしてみようとしたが、結果は往々にして予期せぬものとなった。たまに、思いがけないささやかな成功に勇気づけられることもあったが、経験のなさからくる事故や失敗で、絶望に打ちひしがれることが多かった。全体として、このはじめての試みを通し、こうした分野の進歩は簡単にも早くも遂げられないことを、にがい思いをして学びながらも、わたしは実験にもとづく研究への関心を、深めていった。(Page 135)

いずれもいいお手本にちがいない。だがマリーは、見習おうとはしなかった。彼女にとっては静かな環境こそ第一だったので、友だちとの同居など論外だったし、そもそも勉強のことで頭はいっぱいで、快適な暮らし方などどうでもよかった。またそうしたいと思っても、できないという事情もあった。なにしろ十七歳でよその家の住みこみ家庭教師になり、日に七時間も八時間も教えていて、家事など覚えるひまがなかったのだ。そのため、ブローニャが父と暮らしながら身につけていつた主婦としてのあれこれも、マリーは知らないままだった。おかげでポーランド人仲間のあいだには、やがてこんなうわさが広がることになる。(Page 162)

勉強―……とにかく勉強―……心身ともに勉強に没頭し、その進み具合に夢中だったマリーは、人類が発見したことすべてを身につけることができそうな気がしていた。出席していた講義は、数学と物理学と化学。実験における手先の要領やテクニックにも、少しずつ慣れてきた。(Page 167)

この後、マリーは、人生にはほかにもいくつもの喜びがあると、知ったにちがいない。だが、かぎりない愛情を感じていたときにも、華々しい成功と栄誉につつまれていたときにも、永遠の学徒であった彼女は、貧しさのなか、全力で向かっていったこの情熱的な努力の日々ほど、満たされていたことは、いや、誇りに思っていたことは、なかったのである。彼女はその貧しさを、誇りに思っていた。外国の街で、だれにもたよらずひとりで生きていることを、誇りに思っていた。(Page 177)

そう、この壮絶な四年間は、マリーキュリーにとって、もっとも幸せな時期だっただけでなく、彼女の目から見れば、もっとも申し分のない時期でもあったのだ。彼女が見据えていた、人間としての使命の頂上に、もっとも近づいていられたのだから。(Page 177)

若く孤独で、学業に没頭しているとき、人は〈食うや食わず〉でも生きていくことができる。それも、思いきり生きることができるのだ。二十六歳のポーランド女性マリーは、はかりしれない熱意のおかげで、生活の窮乏も気にならず、うらぶれたような毎日も、賛美することができたのだった。(Page 177)

最新の実験研究の報告書を見ていたマリーは、前の年に出たフランス人物理学者アンリ・ベクレルの研究報告に、目をとめた。その研究のことは、すでに彼女もピエールも知っていたが、もう一度いつもの一心さで読み返し、調べてみることにした。(Page 229)

レントゲンによってX線が発見されたあと、アンリ・ポアンカレは、〈蛍光体〉も、光の刺激を受けるとX線に似たものを発していないか、研究しようと考えていた。これと同じ問題に興味を引かれ、アンリ・ベクレルは、ウランという〈希少金属〉の塩を調べた。ところが予想していた現象のかわりに、別の、まったくちがう不可解な結果に突きあたった。ウラン塩は、あらかじめ光の刺激を与えなくても、自然発生的に光線を放つのだ。それは未知の、驚くべき光線で、黒い紙でつつんだ写真の感光板の上にウラン化合物を置くと、紙を通って感光させてしまう。さらにこの光線は、X線と同じように、周囲の空気を伝導体として検電器を放電させるのだ。

レントゲンによってX線が発見されたあと、アンリ・ポアンカレは、〈蛍光体〉も、光の刺激を受けるとX線に似たものを発していないか、研究しようと考えていた。これと同じ問題に興味を引かれ、アンリ・ベクレルは、ウランという〈希少金属〉の塩を調べた。ところが予想していた現象のかわりに、別の、まったくちがう不可解な結果に突きあたった。ウラン塩は、あらかじめ光の刺激を与えなくても、自然発生的に光線を放つのだ。それは未知の、驚くべき光線で、黒い紙でつつんだ写真の感光板の上にウラン化合物を置くと、紙を通って感光させてしまう。さらにこの光線は、X線と同じように、周囲の空気を伝導体として検電器を放電させるのだ。(Page 229)

こうした特性は、ウラン化合物をあらかじめ日光に当てるかどうかは関係なく、暗いところに長時間置いた場合も同じであると、アンリ・ベクレルは検証した。これこそ、のちにマリーキュリーによって〈放射能〉と名づけられる現象の発見だったのである。だがなぜこの光線が放たれるのかは、いぜんとして謎のままだった。(Page 229)

マリーの考えは、シンプルだった――天才の着想が、シンプルであるように。この時点での彼女のような、研究の〈踊り場部分〉では、何か月も、へたをすると何年も〈立ち往生する〉研究者が、ごまんといる。そういう研究者の場合、マリーがしたように既知の化学物質を調べなおし、トリウム光線を発見すると、その放射能がどこから生じるのか自問し続け、時間を無駄にしてしまう。マリーにしても、やはりあれこれ自問したし、驚きもした。だがそれは、実りのある行動につながっていった。彼女は明らかな場合を探究し尽くすと、今度は未知のものに向かっていったのだ。(Page 233)

彼女は、科学者としての偉大な頭脳から、確信を持って、果敢にこの問いに答えた。大胆な仮説を立てたのだ。それらの鉱物はまちがいなく、今日まだ知られてはいない元素――新しい元素である放射性物質を、含んでいる、と。新しい元素―なんと魅惑的な、心を惹かれる仮説だろうか……もちろん仮説は仮説だが。強力な放射性物質は、それまでマリーとピエールの想像のなかにしかなかった。それが現実に、たしかに存在しているらしいのだ!(Page 234)

〈大きな功績がありながら、そこにさらに大きな謙そんが加わると、人は長いあいだ知られずにいることがある〉モンテーニュのことばだ。(Page 269)

物理学者はつねに、自分の研究を全面的に発表するものよ。わたしたちの発見に商業的な未来があるとしても、それは偶然だし、わたしたちが利用してはいけないわ。それにラジウムは、病気の人たちの治療に役立つんだもの……そこから利益を引きだすなんて、わたしにはとんでもないことに思える。(Page 295)

こうした心やさしい行為の数かずを、マリーは惜しみなく、ひっそりと、適切に行なった。いきすぎることなく、気まぐれにでもなく。彼女は生涯、自分を必要としている人びとには手を差しのべようと決意していた。そうしてつねにそうできるように、自分の資力に応じてと思っていたのだ。(Page 307)

ただ仕事そのものに熱意をかたむけ、その結果の大きさなどには興味を持たない者が、たえず資金不足であるために、夢の実現が遅れる無念さを、想像してほしい。国の最大の財産は、その国に生まれ育ったすぐれた者たちの天才と、力と、勇気である。それを浪費するのが、どれほど取り返しのつかないことかと思うとき、強い痛みを感じずにいられるだろうか。(Page 345)

キュリー夫人はまた、放射性元素の分類と崩壊定数表という論文を発表する一方で、一般にもげんき重要な仕事を成しとげた。放射能測定の基準となる、初の国際ラジウム原基を設定したのである。マリーがみずからの手で、感慨深く密封した軽いガラス管には、二十一ミリグラムの純粋塩化ラジウムが入っていた。そしてそれは、その後五大陸に散っていく原基の原型として役立つことになり、パリ近郊のセーヴル度量衡局に、おごそかに保管されたのだ。(Page 397)

キュリー夫人とアインシュタインのあいだには、すでに楽しい〈天才どうしの交流〉が、何年もつづいていた。ふたりはたがいに尊敬しあい、率直で誠実な友情を結んで、時にはフランス語で、時にはドイツ語で、理論物理学について、はてしなく語りあうのをなにより好んでいた。子どもたちも、この旅行をぞんぶんに楽しんでいて、山歩きでも、飛びはねるように先を行く。少し遅れて、インスピレーション豊かでよくしゃべるアインシュタインが、頭からはなれない理論をマリーに披露しながら、ともに歩いてくる。まれに見る数学の素養に恵まれたマリーは、ヨーロッパでも、彼の話を理解することのできる数少ない人間のひとりだった。イレーヌとエーヴは、少々風変わりなことばを、よく小耳にはさんだ。あるときアインシュタインは、考えにふけって、クレバスを見もせずにその縁を歩き、切り立った岩山にもよじのぼっていた。そして急に立ちどまると、マリーのうでをつかんでこうさけんだ。「そうなんです、マダム、私が知りたいのは、エレベーターが真空のなかを落下していくとき、乗っている人たちの身にはなにが起きるかという、まさにそのことなんです……」だが、こうした感動的な思索にも、子どもたちは大笑いするばかりだった。エレベーターの落下を想像することが、かの〈相対性理論〉につながっていくとは、夢にも思わなかったのだから!(Page 407)

「政府が寄付を呼びかけているの。もうじき国債も発行されるわ」と彼女はそう切り出した。「わたしも、わずかながら寄付をしようと思ってるの。いろいろな科学賞のメダルも、わたしには持っていてもしかたのないものだから、いっしょに出そうと思うのよ。それから二度目のノーベル賞の賞金も――うちの現金の大部分になるのだけど―ずっとスウェーデン・クローネのまま、ストックホルムに置きっぱなしになっているから、こちらに送金してもらって、戦時国債を買おうと思うの。国が必要としているんですものね。ただ、甘い幻想をだいているわけではないの。どのお金も、おそらく消えてしまうのはわかっている。だからあなたの同意なしで、そういう〈ばかなこと〉はしたくないのよ」。(Page 428)

キュリー夫人は、自分が敏しょうであることと、ボートや水泳に才能があることを、ひじょうに誇りに思っていた。ソルボンヌの同僚たちとのあいだには、スポーツに関するひそかなライバル意識があって、ロッホ。ヴラスの小さな入り江では、彼女はまずまずの〈ぬき手〉や〈平泳ぎ〉をしている学者たちや夫人たちを、じっと目で追っていた。もっとも、その場でどうしようもなくもがきながら、進むことはできずに浮かんでいるだけの人たちもいたのだが。そうして彼女は、ライバルたちが泳いだ距離をはかり、表だって競争を申し込むようなことはけっしてしないものの、速さでも距離でも教授連のなかでの記録を破ろうと、練習に練習を重ねた。ふたりの娘は彼女の指導者であり、打ち明け話のできる友でもあった。(Page 448)

…ピエール・キュリーとわたしが、もしわたしたちの権利を保護しておいたなら、ふたりにとって、そしていまだにわたしにとって、障害になっている諸問題にぶつかることなく、満足のいくラジウム研究所をつくる資金ができていただろうにと、友人の多くが言う。そのことばに、正当な理由がないわけではない。だが、それでもわたしたちは正しかったと、わたしは今でもはっきり思う。たしかに人類には、自分の仕事の結果を最大限に利用して、公共の利益を損なることなく自白身の利益も守るという、現実的な人間が必要だ。けれども、ある計画を無欲に追究することにされ、自分自身の物質的利益にそれを結びつけることなどとうていできない夢想家もまた、要なのだ。魅み分もちろん、こうした夢想家たちは、富には値しない。自分たちが望まなかったのだから。しかし、よく組織された社会であれば、物質的な不安なしで自由に研究に没頭でき、使命をはたすことのできる効率的な資金を、はたらき者の夢想家たちに、保証するにちがいないのである。(Page 472)

それまでみずから進んで身をおいてきた孤高というあり方は、もはや現状にはあわないことを、あの旅は証明してみせたのだ。学生ならば、本とともに屋根裏部屋にこもっていてもいいし、無名の研究者なら、時代を気にせず、もっぱら自分の研究に打ちこんでいてもいい――いや、そうするべきとさえ言えるだろう。だが、五十五歳のキュリー夫人という人物は、もう学生とも無名の研究者ともちがう存在なのである。マリーは新しい科学に、新しい治療法に、責任があるのだ。その名はすでに輝かしい信頼につつまれているので、わずかなふるまいや、ほんの少し顔を出すだけのことで、彼女が願うような公共の利益になる計画を、成功に導くことができる。帰国してから、マリーはこうした交流や任務にあてる部分を、自分の人生のなかに、とっておくようになった。(Page 473)

彼女は、〈世界における科学研究の無政府状態〉と呼んだものと闘い、一見たいしたことではなさそうだが、実は知識の進歩を左右するようないくつかの的確な問題について、委員たちの同意を得ようと力を尽くした。それは、合理的な文献目録を作成することだった。目録があれば、研究者は自分が研究している分野で、すでに明らかになっている結果について、すぐに資料を集めることができるようになる。そのために、科学の記号や用語、刊行物の判型、雑誌に発表された論文の要約などに統一性を持たせ、定数の一覧表もつくった。(Page 476)

社会の利益とはなんであろうか。社会が、科学的資質の開花を助けてはならないだろうか。ならば、現れようとしているそうした資質を犠牲にしうるほど、社会は豊かなのだろうか。わたくしはむしろ、真の科学的資質を持つ能の集まりは、かぎりなく貴重で繊細なもので、むだにするのはおろかしく、許しがたいことでもあり、開花のためのあらゆる機会を与えるために、心を尽くして見守らなくてはならないと考えている。(Page 477)

国際的な仕事というのは、とてもたいへんな任務ですが、どのような努力と、文字どおりの犠牲的精神を払っても、少しずつ経験を重ねていくことがひじょうに重要だと思います。ジュネーヴでの成果には、たとえ不完全でも、人びとが支持するに値するすばらしさがあります。(Page 478)

最期は、一見もろく見える人の、生命力の強じんさ、抵抗力の激しさが、あらわになった。それは体温も下がっていく肉体のなかで、なおもたゆまず、あくまで闘いつづけようとするじょうぶな心臓の抵抗力だった。十六時間にわたって、ピエール・ロヴィス医師とエーヴは、生か死かも知れないその女性の冷えきった手を、片方ずつ握っていた。(Page 532)

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