「元プロアカペラー」を作った人たち ~岩城の場合~ 第3話 「教師D」

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友人Tと初めてのアカペラグループを作るべく動き始めた。
興味のありそうな者に声をかけ、楽譜を探し、トライしては失敗。

「やっぱ難しい」とメンバーが抜ける度に新しいメンバーを探し、より簡単そうな楽譜を探したり、自分たちで作ってみたりを繰り返す。

試行錯誤は1年近くに及び、気付けば中学2年も終わろうかというころ。

メンバーは野球部の同学年のキャプテンS、同じく野球部の後輩Y、僕、Tの4人になっていた。

僕らは昼休みに、1階の男子トイレに集まっていた。

当時、我が母校である調布第八中学校の1階には、特別教室しかなかったため、昼休みに1階のトイレを利用するものは少なかったのだ。
音の反響もあり、そもそも使うものが少ないため校内で最もキレイなトイレだった。

その日は初めて4人で音を合わせる日だった。
楽曲は、ゴスペラーズの「ひとり」。
この時すでに、僕はベースだった。

印象的なボーカルの「愛してる」のフレーズから始まり、後からコーラス陣が揃ってDメジャーの和音を奏でる。

刹那、僕の全身を得体の知れない感覚が包み込んだ。

BPM70程度の全音符、2秒足らずのDメジャー。
その間に、僕は考えていた。


あ、俺はコレを一生やるんだろうな。


やりたい、ではなかった。
やるんだな、である。

訳の分からない感動に包まれたまま、初めての音合わせを終えた。
中学生の僕らは、その感情の処理の仕方もわからず、いたずらに抱き合い、ハイタッチをした。

昼休みの男子トイレ、事情を知らない人が見たらだいぶヤベーやつらである。


僕らの1階男子トイレ集会はしばらく続く。
練習の成果を披露する場面もでき始めた。

ここでようやく登場するのが、教師Dである。

彼女は僕の入学時の担任であり、学年主任であり、音楽の教師であった。
第1話で「兄貴を超えなきゃね」とブチかましてきた張本人でもある。

今思えば彼女もなかなかにパンチの効いた人物であった。

授業数の減少に伴って消滅した文化祭の代替イベントを、その年に増えた「総合的な学習の時間」に絡め、その年のうちに立ち上げたり、
卒業遠足の富士急ハイランドを「最高の思い出にしなければ意味がない」とか言って
結果「開園から閉園まで」で学校からOKをもぎ取ってくるような、ファンクでロックな人だった。
そして今は都内某所で麻雀教室の先生をしているそうだ。
マジで意味が分からない。

そんなロック音楽教師であった恩師Dは、当たり前のように言った。
「音楽の練習は音楽室でしなさい」

僕らのたまり場は、彼女の一言で1階の男子トイレから、最上階の音楽室にグレードアップすることになった。

多分普通にダメなやつだ。
普通に先生が怒られるやつだ。
しかし先生は言った。

「やるんなら真剣にやりなさい。Tも岩城も音楽でプロになる人なんだから。中途半端にやるんじゃない。」

当時僕は「歌手になりたい」などと周りには一言も言っていなかった。
Tは先述の通り当時からヴァイオリニストであったわけだが、当時先生には僕の何がどう見えていたんだろうか。
多分そこまで深く考えてなかったんだとは思う(そういう人である)。

とはいえ、その言葉を胸に、当時の僕は昼休みと放課後をアカペラと向き合う時間に費やすことになる(野球部そっちのけで)。

今思えば、あの時間があってこその僕である。

アカペラアレンジ、打ち込み、レコーディングなどはこのころに始めた。
その経験が今も礎になっている。

彼女から直接音楽的な指導を受けたわけではなかったが、これ以上ないタイミングでいくつも金言を賜った。

彼女の言葉が無ければ、中学生の衝動がその後の人生を決定づけるほど確固たるものになることはなかっただろう。

彼女にとって自分は、長い教員生活の中で出会った生徒の一人にすぎない。
おそらく気まぐれに近い彼女の発言のおかげで、数年後の僕は曲がりなりにも「音楽家」を名乗ることになる。

当時一緒に奏でてくれた友人たちにも思うことだが、「自分のおかげでプロになった奴がいる」と、自慢に思ってもらえるような音楽家でありたいなと、
プロを名乗りだした後も、長きにわたって彼らの存在が僕を励まし続けてくれた。

今もD先生が音楽教師を続けていれば、少しは彼女のステータスになれたかもしれないが、先述の通り今の彼女は麻雀の先生である。

話のタネにでもしてもらえていればありがたい。


ちなみに友人らとのアカペラグループは、中学卒業とともに消滅することになる。

その集大成は、卒業式の舞台で披露された。
卒業イベントではない。正式な「卒業式」である。

卒業生の門出の言葉。
「楽しかった運動会」「「「運動会」」」とかのやつ。
そのオープニングとして、卒業生のうち代表4名が前に出て、森山直太朗の「さくら」をワンフレーズ歌う。
市議会議員やら近所の偉いさんやらが来賓で来る、ちゃんとした式で。
当然、教師Dの差し金である。

当時のことを覚えている人間が世界にどれだけ居るかわからない。
その人たちも、そのアカペラを歌ったうちの一人が数年後にプロのアカペラプレイヤーになっているなど、おそらく知りもしないだろう。

プロの音楽家とは、そんなもんだったりもするのだが、
「今に見てろよ」とは、未だに思っているのだから、自分は全く仕方がないな、とも思うのだ。
そして「今に見てろよ」の根っこには、1階男子トイレと教師Dの言葉が、あの日の輝きそのままで息をしていたりするのだ。

思春期のそういうのは根深い。
いや、僕が成長していないだけだろうか。


アカペラに対する情熱や、執念。
ガソリンは満タンの状態で、僕は高校へと進学する。

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