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【映画】オッペンハイマー

やっと観に行けました。
IMAXシアターがコナンで埋まる中、最寄りの109シネマズでは昼の良い時間にIMAXレーザー上映をやってくれていて、公開からの期間を考えると結構な客の入りでした。

まず一言でいうとこれは本当に素晴らしい作品で、歴史的名作かもしれないとも思うぐらいです。
完全に期待を超えてました。

マンハッタン・プロジェクトというとアンダースン&ビースンのSF小説『臨界のパラドックス』で描かれていましたがフォン・ノイマンが出てきてた記憶。
他にコンピュータ開発史でノイマンが出てくると、やはり原爆開発の話も出てきますね。
今回の映画では、ノイマンは影も形も出てきませんが……

クリストファー・ノーランは『メメント』『ダークナイトライジング』あたりが未見。
『インターステラー』『テネット』はとても素晴らしいが『インセプション』には否定的、という感じで、注目はするがファンではない距離感です。
『ダンケルク』も良かったけど他に面白い戦争映画はいくらでもあるしな…… という感じ。

今回『オッペンハイマー』では、水面に落ちる雨の波紋といういかにも物理っぽい映像、主人公の顔、核分裂をイメージしたらしき炎のようなイメージなど異質なものが次々と重ねられていく独特の編集から始まります。
この感覚が単なるオープニング映像というわけではなく映画全編にわたるであろうことがわかってくるにつれ、なんと美しい映画なのかと感動しました。
シーンの重なり合いも複雑で、まったく別の複数の時間軸が交錯する、これまでのノーラン作品に共通する手法に幻惑されながらも、それがしっかりとドラマを構築していくことに痺れました。

いわばメチャクチャな脚本と編集なのですが、それでも映画を観ているという確固たる手応えがあるのは、ホイテ・ヴァン・ホイテマ(藤子不二雄っぽい名前ですな)の素晴らしい撮影のゆえでしょう。
IMAXフィルムで撮影された風格ある映像、とりわけ俳優たちの名演にグッと迫るドアップは、被写界深度が浅くてフォーカスが外れたりするのも、何か人物の心の揺らぎのようにも感じられたりもする味でした。
環境音の多い同時録音ぽい音響(セリフは聞きづらい模様……私には難しい英語が多いし字幕の情報量が多くてどっちにしてもよくわかりませんでしたが)もあいまってドキュメンタリ的でもあり、緊張感あるリッチな映画体験が続くことで3時間の上映時間をエキサイティングなものにしてくれていました。

『バガヴァッド・ギーター』から「我は死神なり、世界の破壊者なり」を引用する件についても、こんな場面(っていう場面なんですが)でやるとは、なんてカッコイイ映画なんだと思いましたね。

こうした独特の映像手法がとりわけ効果的になるのが、原爆投下後の講演のシーンで、1シーンにファシズムへの熱狂や原爆と戦争の悲惨さを集約させてオッペンハイマーをさいなむことで映画のテーマが鮮明になりました。
ここは「あまりにわかりやすいんだけどいいんだろうか」と少し思いましたが、語り口の複雑さがとっつきづらいだけで映画の核心はきわめてわかりやすいとも言えます。

物語は、「やれることはなんでもやっちゃう主人公が、やらかした後になってその意味に気づく」というもので、原爆開発のみならず女性関係なども含め何かと軽率で危なっかしいオッペンハイマー像が描かれていました。
広島と長崎の悲劇が、そんなことでもたらされて良いのかというのが映画のテーマのひとつですが、作れるとわかれば作ってしまう「やたらと頭の良いのび太」に注目することには大いに意義があります。
それがまた、使えるなら使ってしまう「やたらと攻撃的なのび太」でもある米政府や軍に託される恐ろしさもしっかり描かれていました。
ドラえもんも「地球はかいばくだん」持ってたからね……
マンハッタン・プロジェクトにいくらでも資源を投入できると思ってプロジェクトを巨大化していく様子には高揚感があり、ちょっとワクワクする自分への恐ろしさも感じました。

プロジェクト・マネジメントの元祖といわれるマンハッタン・プロジェクトですが、映画では統制がうまくいっておらずとりわけ情報管理には課題があり(それもオッペンハイマーの功罪として描かれます)、そのことが冷戦時代に向けて大きく影響を与えていくという話でもありました。
映画では、ロバート・ダウニーJr.演じるストローズの私怨が赤狩りでドライブされる格好ですが、赤狩りというのも情報の非対称性による社会不安の結果のひとつであったわけで、冷戦の始まりというものがよくわかりました。

そのロバート・ダウニーJr.ですが、アイアンマンと同じ人とは思えない、卑小でありながら人前での振る舞いはそれなりに上手という複雑さで、アカデミー助演男優賞も納得の名演でした(それだけに、授賞式でのあの態度には失望させられます)。
フレディことラミ・マレックとか、フルメタルジャケットのジョーカーことマシュー・モディーンとか、あげくにトルーマン大統領を演じたあの人とか、見たことある人が次々と出てくるので「この人、どこで見たんだっけ」と考える忙しさはあるものの、映画を見やすくはしてます。
初見の俳優の顔ってどうしても覚えづらいからねぇ。
もちろんオッペンハイマー演じるキリアン・マーフィーの、何考えてるかよくわからない感じのリアリティもすごいです。
『フォー・オール・マンカインド』のセルゲイ役の人も1シーンだけ出てたと思うんだなあ……

さて、原爆被害の直接描写がないことについて色々な意見がありますが、私は本作単体においてはそれは大きな疵ではないと考えています。
映画に出てくる人物の誰ひとりとして、広島と長崎の惨状に対し当事者ではなく、記録フィルムを見て目をそらすぐらいしかできません。
主人公が何から目をそらしたのか、その写真を映しても良かったとは思うのですが、米国の加害性に無頓着な映画であったとは思いませんでした。

原爆を第二次世界大戦の中にどう位置付けるかは考えどころで、加害国たる日本が被害者性を強調してしまう装置となっているのが広島や長崎や各地の空襲でもあります。
米国は被害者側ではありますが、戦争に勝利する過程で多くの民間人殺害をおこなったのも確かで、原爆投下もそのひとつ。
先日Apple TV+で観た『マスターズ・オブ・ザ・エアー』でも、ドイツ軍を打倒したのは良いが米軍だって民間人をたくさん殺したであろうところ、いつも戦勝で
ワッショイってのはどうなのっていうのは、少し思いました。

その意味では、米国や連合国の加害性に向き合う意思は感じられます。
とりわけ戦後のトルーマン大統領とのやりとりなどにはその感覚が表出しており、この加害性から逃れたい、というのも米ソが戦後世界を構築する動機だったのではと思わされました。

本作だけでは、原爆の最も重要で悲惨なところを知ることはできませんが、本作をきっかけに原爆投下の実相を知ろうとする人が増えたり、知るチャンスが増えたりするといいなとは思え、そういう意味では本作の意義は大きいように思います。

そして、ラストシーンは非常に明快にわかりやすく、ちょっとした謎解きの快感までまじえて、人類が直面する脅威を描こうとしており、恐ろしくも優れた結末でした。

というわけで、広島や長崎の惨状をかいまみることのできる真に恐ろしい映画が今後作られること、米国が第二次大戦で行った加害行為を直視すること、などを今後に期待し、そのきっかけとなるべき本作に大いに価値を感じた次第です。

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